高杉晋作は何をした人? 波乱の人生と松下村塾が与えた影響

幕末の風雲児と呼ばれ、民衆パワーを結集した奇兵隊を創設して、維新を牽引した高杉晋作。数え年で29歳というあまりに短い生涯を晋作はどのように生き、倒幕への道筋を切り拓いていったのか。また、彼の人生に大きな影響を与えたという松下村塾では、どんな出会いがあったのか、晋作本人による語りでご紹介します。

※本稿は一定の文献等をもとに制作していますが、歴史や人物の評価については様々な解釈があるため、認識が異なる場合にはご容赦ください。

画像:高杉晋作(左、萩博物館所蔵)と松下村塾(右)

高杉晋作は何をした人? 波乱の人生と松下村塾が与えた影響

幕末の風雲児・高杉晋作

画像:萩市にある高杉晋作誕生地

はじめに高杉晋作のことをご存知ない方に向けて、彼がどのような人物であったかをご紹介します。


高杉晋作は1839(天保10)年に長州藩士・高杉小左衛門(のちの小忠太)の長子として生まれました。高杉家というのは、中国地方で大きな勢力を誇った戦国大名・毛利元就の頃から300年以上、毛利家に仕え、藩主の側近を輩出してきた家柄でした。


少年時代の晋作は頭は良かったのですが、体格が大きくなかったため、それをコンプレックスに感じ武芸に力を入れていたようです。学問の方では、藩校である明倫館に通っていましたが、形式ばかり重んじる校風を退屈に感じていました。


しかし19歳の時、幼馴染の久坂玄瑞から、「黒船での密航を試みて失敗し、自宅で蟄居(ちっきょ)させられている吉田松陰という面白い先生がいるから君も一緒に来ないか?」と誘われて、松陰が主宰する松下村塾の門下生となります。松陰との出会いによって、晋作は学問に開眼。久坂とともに松陰門下の「竜虎」「双璧」と呼ばれるまでに成長しました。


画像:萩博物館・高杉晋作資料室には貴重な資料の数々を展示


やがて藩内でもメキメキと頭角を現してきた晋作は、上海へ渡航のチャンスを得て、かの地でかつて師の松陰が危惧していた、日本の国の存亡危機が間近に迫ってきていることを実感します。


帰国後の晋作は、身分にこだわらずに国を守りたいと考える有志を募って「奇兵隊」を創設したり、長州藩が欧米列強の国々と戦争になった際には、講和を結ぶ大役を任せられるという活躍を見せます。さらに、これまで200年間続いてきた幕藩体制では、外敵から日本を守りきることはできないと考えて兵を挙げ、倒幕勢力の先鋒となっていったのです。


それでは次項から晋作本人に登場してもらい、29年間の波乱に満ちた人生で何を思い、行動していたのか聞いてみましょう。

Column

萩博物館・高杉晋作資料室

萩の歴史文化の発信拠点、萩博物館。館内には「高杉晋作資料室」があり、産着から最晩年の書まで晋作に関する資料が数多く展示されています。他では見られない貴重な資料の数々は、晋作ファン必見です。

萩博物館・高杉晋作資料室

吉田松陰先生との出会い

画像:松下村塾の講義室


そいじゃ、僕の人生を変えた松陰先生との出会いや、松下村塾の仲間たちとの交流を皆さんにご紹介しようと思います。


幼少期の僕は、近所の寺子屋で久坂玄瑞と机を並べ、のちに藩校の明倫館で学びました。強い武士に憧れちょった僕は、体が大きゅうないというコンプレックスもあり、剣術稽古に精を出しちょったんですが、久坂が面白い先生がおるっちゅうて、萩の郊外で開講しちょった松下村塾に通うようになりました。19歳の頃じゃったと思います。教室はわずか十八畳半、塾生は近所の少年たち。なんとも素朴な場所じゃったんですが、ここで僕は人生の師と仰ぐ吉田松陰先生と出会ったんです。



〈晋作幼少期~塾生時代の関連スポット〉

高杉晋作誕生地
高杉晋作誕生地
産湯の井戸や自作の句碑などが残る、晋作の誕生地。
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金毘羅社 円政寺
金毘羅社 円政寺
高杉晋作が幼い頃、度胸試しをした天狗の面がある寺。
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菊屋横町
菊屋横町
高杉晋作の誕生地がある、晋作が生まれ育った横町。
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旧萩藩校明倫館
旧萩藩校明倫館
高杉晋作も通った藩校。
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萩・明倫学舎
萩・明倫学舎
藩校明倫館の跡地に建てられた萩の新たな観光拠点。
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松陰先生の教育方針

画像:吉田松陰肖像画(山口県文書館所蔵)


松陰先生は自身が若かりし頃に経験した東北遊歴や、アメリカへの密航計画についてなどを真剣に語ってくれました。僕も久坂も1853(嘉永6)年の黒船来航を期に、いかにしてこの国を守ればええんか、まだまだ漠然とですが憂いを感じちょった時期じゃったから、先生の語り口には自然と心惹かれていったことを憶えちょります。先生はまた、年端も行かん僕らを「あなた」と呼び、決して偉ぶらんで、同志として接してくれたんです。


松陰先生の教育方針のすごいところは、僕ら門下生一人ひとりの個性を見つめ、その長所を伸ばしてくれたっちゅうところじゃあないでしょうか。僕などは今まで学問をおろそかにしちょったことをすっかり見抜かれてしまいました。さらに、プライドが高くて、「学問が未熟だ」と叱ろうもんなら、へそを曲げて松下村塾に足を向けんようになるんじゃあないかと考えられたようで、僕が密かにライバル心を持っちょった久坂と競わせるような指導をすることで、やる気に火をつけてくれたんです。


先生から教えてもろうた一番大切なことは、「志」を立てよ。「志」を貫くためなら、周囲から「狂」っていると言われても気にするなっちゅうことです。この教えを生涯、心に刻むため、僕は時に「東行狂生(とうぎょうきょうせい)」という号を使いました。同じく門下生の山県有朋などは「山県狂介(やまがたきょうすけ)」と称しちょりました(笑)。

Column

高杉晋作や久坂玄瑞が通った「松下村塾」

吉田松陰が主宰した松下村塾は、現在も幕末当時の建物が残っており、2015年には「明治日本の産業革命遺産」のひとつとして世界文化遺産にも登録されました。室内には松陰の人物像や松陰と関わりのあった人物の写真が展示されています。当時に思いを馳せながら、今も昔も変わらぬ松下村塾を見学してみてはいかがでしょうか。

高杉晋作や久坂玄瑞が通った「松下村塾」

松下村塾の仲間たち

画像1:久坂玄瑞肖像画(山口県立山口博物館所蔵)

画像2:右から伊藤俊輔、高杉晋作、三谷国松が長崎で撮った写真(光市 伊藤公資料館所蔵)


松下村塾で僕が一番仲良うしちょったのは、やはり幼馴染の久坂玄瑞です。自分の弱いところも吐露できる唯一無二の親友で、松陰先生からも久坂だけは大切にしろと言われちょりました。伊藤俊輔(のちの初代内閣総理大臣・伊藤博文)はいつも弟分のように僕に付いてきちょったので、かわいがってやったつもりです(笑)。


1858(安政5)年1月、久坂には藩命で江戸への遊学許可が下りました。他の門下生たちも江戸や京都などへ向かい、それぞれが政治運動に身を投じていったんですが、松下村塾には彼らから日本各地の情報が送られてくるようになりました。松陰先生はこれを「飛耳長目(ひじちょうもく)」と呼び、塾に残った者たちは皆でその便りを食い入るように読みあさりました。僕も萩を出て見聞を広めたいと思っちょりましたが、そん時は、僕をかわいがってくれちょった祖父が亡くなった時期とも重なって、身動きがとれんかったんです。



〈塾生たちの関連スポット〉

久坂玄瑞誕生地
久坂玄瑞誕生地
高杉晋作と松下村塾の双璧と呼ばれた久坂玄瑞の誕生地。
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伊藤博文旧宅
伊藤博文旧宅
伊藤博文がこの家から松下村塾に通ったと伝わる。
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伊藤公資料館
伊藤公資料館
伊藤博文の遺品を展示し、功績を顕彰する資料館。
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師の「志」を受け継ぐ

画像:吉田松陰が萩の城下町を見返り、涙を流したと伝わる涙松跡


1858(安政5)年9月、幕府は体制に批判的な人間の弾圧を始めるようになりました。いわゆる「安政の大獄」です。松陰先生はこのような幕府の独裁を止めるべく、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺計画を目論んじょりました。僕や久坂は、松陰先生の暴走を止めんにゃいけんと文を送っちょったんですが、先生はついに捕らえられ処刑されてしもうたんです。1859(安政6)年10月のことでした。

享年30。先生の死は、僕ら松下村塾門下生にとっては受け入れがたい、非常に悲しい出来事ではありましたが、先生が成し遂げることができんかった「志」を僕らが受け継ぐんじゃっちゅう強い意志を持つきっかけになりました。「尊王攘夷」のために、のちに品川の英国公使館を焼き討ちしたんも、僕や久坂、伊藤俊輔など、松下村塾門下生が中心でした。



〈松陰先生関連スポット〉

涙松跡
涙松跡
吉田松陰が安政の大獄で捕らえられ、江戸に護送される際に「かへらじと思いさだめし旅なればひとしほぬるる涙松かな」と詠んだ場所と伝わる。
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吉田松陰防長路惜別の地
吉田松陰防長路惜別の地
吉田松陰が故郷との最後の別れを覚悟し詠んだ歌碑が立つ。
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松陰神社
松陰神社
のちに伊藤博文らによって建立された、吉田松陰を祭神とする神社。
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上海渡航で実感した日本の危機

画像:「外白渡橋(外国人は無料で渡れる橋)」と名付けられている上海のガーデンブリッジ

僕の人生の転機は他にもあります。1862(文久2)年、24歳の時に運良く上海に行くことができました。僕は常々「翼あらば千里の外も飛めぐり よろづの国を見んとしぞおもふ」と思っちょったんです。


上海に着くと、港にはヨーロッパ諸国の商船、軍艦など約数千隻が停泊しちょって、陸には城郭のような白壁の商館が立ち並び、それは華やかで活気にあふれちょりました。じゃけど、市街を歩き回りよるうちに、上海には別の顔があることに気が付きました。現地の中国人が、西洋人にこき使われちょるんです。イギリス領事館近くに架かるガーデンブリッジは、イギリス人が架けた橋ということじゃったんですが、イギリス人からは通行料を取らんで、中国人からは徴収しちょります。武士の規範ともいえる孔子を祀った孔子廟では、イギリスの兵隊が陣を敷き、銃を枕に昼寝をしちょったんです。清国は1851年から起こっちょったアヘン戦争後の内乱を自力で鎮圧することができんで、イギリスやフランスの軍隊に頼ったとはいえ、この状況はあんまりじゃあないじゃろうか。戦いに破れた国は、国の文化や誇りまでも踏みにじられてしまう。日本は決して清国の轍を踏んじゃあいけんとこの時痛感したんです。


画像:鹿児島県にある五代友厚銅像(写真協力:鹿児島県観光連盟)


上海では気の合う仲間もできました。そもそも今回の渡航は、幕府による貿易の視察が主な目的じゃったんですが、派遣団には諸藩からも何人かの随行者が出ちょりました。薩摩藩から来た五代才助(のちの五代友厚)っちゅう男とは、航海中からすっかり意気投合しました。五代によると、薩摩藩はすでに蒸気船を手に入れ、上海あたりで諸外国を相手に密貿易を始めていると言うちょりました。当時、我が長州藩はたった2隻の帆船軍艦しか所有しちょらん状況じゃったから、これじゃあ長州は新しい時代に取り残されてしまうと焦りました。松陰先生が僕らに命がけで何を伝えたかったんか、上海渡航ではっきりとわかった気がしました。

隠棲の日々。そして奇兵隊の創設

画像:入江と高杉の名前が入った「三烈士血盟書」(萩博物館所蔵)


帰国した僕は、久坂をはじめ松下村塾の仲間に上海で僕が感じた危機感を伝え、長州藩が攘夷の急先鋒となって外国に負けん強い国づくりを行っていくべく行動を起こしました。1862(文久2)年12月に決行した品川の英国公使館焼き討ちなどはその一環です。久坂らは京都で攘夷の周旋活動を活発化し、1863(文久3)年3月には14代将軍・徳川家茂を上洛させて、朝廷に対して攘夷を実行すると約束させました。


じゃけど、僕はまだ釈然としちょりませんでした。久坂らが京都の尊皇攘夷派公卿たちと結びついたことで、政局面では長州藩がリードする形になりましたが、藩は未だに蒸気船の1隻も買わずにおりました。攘夷を本気で実現するためには何が必要なんか、わかっちょらんのです。それで僕は藩に10年の暇を願い出て剃髪し、「東行(とうぎょう)」と号し、隠棲を決め込みました。「西へ行く人をしたひて東行く わが心をば神やしるらむ」。中世の歌人・西行法師への憧れから付けた名前ですが、「東」とは、すなわち幕府との戦いを意味しちょります。実はこの時、僕は将軍暗殺計画を考えちょったんです。じゃけど、この計画に賛同してくれたんは松下村塾門下でも入江九一たった1人。結局計画は頓挫しました。


画像:奇兵隊の軍服(山口県文書館所蔵)


僕が隠棲しちょった1863(文久3)年5月10日は、将軍が定めた攘夷の期限じゃったんですが、久坂や入江が、京都から連れてきた諸国の尊王攘夷派の志士たちとともに下関へと入り、関門海峡を通過する外国船に向けて砲撃を開始しました。我らの攘夷の「志」は本気であるっちゅうことを示したわけですが、6月には報復としてアメリカやフランスの軍艦が来襲し、下関にあった砲台はあっけなく破壊されてしもうたんです。じゃけど、僕はこれも当然の結果じゃろうと思っちょりました。西洋列強との軍備の差は歴然です。しかも、太平の世に慣れきっちょる武士たちが、古びた武器でいくら束になってかかっても敵うはずはありません。


この無様な敗戦によって、僕は藩主の毛利慶親・定広父子から呼び出されて、下関の防御体制についての意見を聞かれたんです。それで僕は正規の藩兵じゃあのうて、有志の士を募り、神出鬼没の働きをする奇兵、すなわち「奇兵隊」の創設を説いたんです。この危機を乗り越えるためには、身分の上下を問わず、志を持った民衆のパワーを利用せんといけん。藩主はこの意見を喜んでくださり、僕に下関の防御を一任してくださいました。



〈攘夷運動/奇兵隊 関連スポット〉

下関市立東行記念館
下関市立東行記念館
高杉晋作関連資料を展示する記念館。
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入江九一・野村靖誕生地
入江九一・野村靖誕生地
兄弟で松下村塾に学んだ入江九一・野村靖の誕生地。
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奇兵隊陣屋跡
奇兵隊陣屋跡
奇兵隊の隊士が訓練に明け暮れた陣屋の跡。
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先生を慕うてようやく野山獄

画像:八・十八の政変により尊攘派の公家が長州へ逃れる様子を描いた画(萩博物館所蔵)


奇兵隊は僕が創設者ではありますが、総督を務めた期間はわずか3カ月程度。その後は藩の政治面に関わることが多くなっていったんですが、その間、京都では大変なことが起こっちょりました。当時、久坂が中心になって京都で周旋活動を行い、倒幕の機運を盛り上げようとしちょりました。じゃけど、この動きを孝明天皇が危惧されるようになって、1863(文久3)年8月18日、長州藩にライバル心を持っちょった薩摩藩が京都守護職を務める会津藩と結託し、御所から長州藩と尊王攘夷派の公卿を締め出すという「八・十八の政変」が起こったんです。


これに長州藩の血の気の多い者が反発し、京都に軍隊を進発させようと息巻いちょりました。僕は藩主の命を受けて、防府にあった進発派の陣営に赴き、武力行使を食い止めようと説得したんじゃけど応じてもらえず、仕方なく京都の情勢を正確に把握した上で再度、進発派の説得にあたろうと考えて京都へ向かいました。ところがこの行動を「高杉は脱走した」と捉えられてしもうて、萩へ連れ戻されると、野山獄に投獄されてしもうたんです。1864(元治元)年3月のことでした。


画像:野山獄跡


確かに、藩の許しを得んで京都へ行ったんはまずかった。僕は昔から直言直行、傍若無人な性格が災いして周囲に誤解を与えてしまうことが多いんです。じゃけど、僕にとってこの野山獄っちゅうのは、師の松陰先生も投じられたことのある感慨深い場所でした。「先生を慕うてようやく野山獄」。ここで先生の志を今一度、自分の胸に深く刻み込むことができたんです。

四国連合艦隊との講和交渉に駆り出される

画像:松陰の実兄・杉梅太郎に久坂の戦死について問い合わせる晋作の手紙(萩博物館所蔵)


僕が野山獄におる間、京都ではついに進発派が京都へ軍隊を進め、1864(元治元)年7月には御所にある蛤御門での発砲を契機に「禁門の変」が勃発しました。僕の盟友、久坂玄瑞をはじめ松下村塾門下生だった入江九一、寺島忠三郎らがそれで命を落としました。それだけじゃのうて、8月には先に長州藩が行った攘夷の報復として、イギリス・アメリカ・フランス・オランダからなる四国連合艦隊が下関沖に現れ、激しい砲撃を加えてきたため藩内は大騒ぎになったんです。


画像:みもすそ川公園に設置されている長州砲のレプリカ


四国連合艦隊を迎え撃ったのは、松下村塾門下生の赤禰武人(あかねたけと)が率いちょる奇兵隊でした。じゃけど長州藩の古臭い軍備じゃあ欧米列強の最新武器に太刀打ちできんで、下関に上陸を許す事態となってしもうたんです。この非常事態に僕は急遽牢から出されて、重役の任を与えられると連合艦隊との講和を結ぶ役割を任されたんです。こん時、僕は直垂に烏帽子っちゅう日本古来の正装に身を包み、講和交渉に臨みました。イギリスの通訳官であったアーネスト・サトウは、悪魔のような傲然とした態度で僕が現れたと言うちょったようですが、僕の方はこれで長州藩の命運も尽きたと思うちょりました。通訳として同行しちょった伊藤俊輔には、密かに朝鮮半島へ亡命しようと持ちかけちょったほどです。じゃけど、粘り強く講和交渉を続けた結果、連合国側から請求された賠償金300万ドルは、攘夷を命令したのは幕府であると突っぱねて、幕府にそれを支払わせることに成功したんです。


不思議じゃったんは、この戦争とその後の講和交渉を経て、イギリス側が僕らに大変な好意を抱いてくれるようになったっちゅうことでした。どうやらイギリスは、開国すると言いながら、攘夷の命令を出したりする煮えきらん態度の幕府に不信感を募らせちょったようです。それに対して我が長州藩は直言直行(笑)。日本っちゅう国の独立を守るために、先頭に立って戦った姿勢がイギリス人に好感を与えたっちゅうことらしいんです。



〈禁門の変/四国連合艦隊 関連スポット〉

来島又兵衛誕生記念碑
来島又兵衛誕生記念碑
進発派を指揮した来島又兵衛の生誕地。
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みもすそ川公園
みもすそ川公園
四国連合艦隊からの砲撃に立ち向かった長州砲のレプリカがある。
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赤禰武人墓所
赤禰武人墓所
松下村塾門下で、3代目奇兵隊総督を務めた赤禰武人の墓所。
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長州男児の腕前お目にかけ申すべし!

画像:決起の舞台となった功山寺


1864(元治元)年8月、長州藩は「禁門の変」で御所に攻め入ったっちゅうことで朝敵になってしもうちょりました。これを機に幕府は西国諸藩に命じて「長州征伐」に乗り出してきました。藩の存亡をかけて、僕は幕府の征長軍と戦うつもりでおりました。じゃけど、藩内には幕府に謝罪し、ひたすら恭順を示すっちゅう「俗論派」が台頭しちょりました。俗論派は僕ら倒幕を目指す勢力の一掃をもくろみ粛清を始めました。僕の所にも追っ手が来たんじゃけど、この時ばかりは僕は変装して逃げることにしたんです。松陰先生が教えてくれた「生きて大業の見込みあらば、いつまでも生くべし」という言葉が胸にありましたけぇね。


10月に萩城下を離れた僕は、当時、奇兵隊の軍監を務めちょった山県狂介に「立ち上がるんは今じゃ!」ちゅうて求めたんじゃけど、征長軍が迫っちょるこの時期に藩内での内紛は避けたいっちゅう考えから山県は動かんじゃったんです。僕は下関を経て、福岡に向かい、倒幕を志す者を募ったんじゃけどここでも同志は集まりません。そうこうしちょる間にも幕府の征長軍は迫ってきちょりました。僕は今こそ自分が新しい時代を切り拓くリーダーにならん!ちゅう決意を固め下関へ戻ると、まずは藩内の俗論派を打倒する兵を挙げたんです。


画像:功山寺にある高杉晋作像


最初に僕の挙兵に賛同してくれたんは伊藤俊輔でした。彼が率いちょった力士隊に遊撃隊が加わり、12月にはようやく約80人の兵力で藩の会所を襲撃して反撃の狼煙を上げることができました。その後、僕らは長府にある功山寺に「八・十八の政変」以来、潜伏しちょった三条実美ら五卿のもとを訪れて、「これより長州男児の腕前お目にかけ申すべし!」と別れの挨拶を交わしました。結果的にこの挙兵は大成功となりました。三田尻の海軍局を襲撃した際には軍艦を手に入れることができましたし、僕らの勝利を見て奇兵隊ほか多くの諸隊も加勢に現れ、藩内の俗論派を一掃。戦力差が大きい幕府には、表面上は恭順の姿勢を示しながらも、裏では武器の近代化、洋式化を推進し、来るべきときに備える「武備恭順」に藩論を統一することができたんです。



〈晋作挙兵の関連スポット〉

功山寺
功山寺
晋作が挙兵した寺。境内には馬上姿の銅像がある。
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三田尻御舟倉跡
三田尻御舟倉跡
決起した高杉晋作が急襲した地。
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大田・絵堂戦跡記念碑
大田・絵堂戦跡記念碑
高杉晋作率いる諸隊と俗論派が激突した戦跡。
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捨て身で時代を動かす

画像:四境戦争における小倉合戦図(萩博物館所蔵)


1865(慶応元)年1月、僕らの恭順の姿勢に、幕府の征長軍は一旦兵を引き上げました。僕はこれを機に長州藩を独立した強い国にせんといけんと考え、下関を開港して国際貿易港にしようと思うちょりました。政局にあたっては松陰先生の弟分的な存在で、我ら松下村塾門下生をかわいがってくれた木戸さん(桂小五郎)が、「禁門の変」以来の宿敵・薩摩藩と交渉し「薩長同盟」を結んだことで、薩摩藩を通じてイギリス製武器の購入ができるようになったんです。


しかし、着々と富国強兵政策を進める我が藩の動きを察知した幕府は、2度目の征長軍を送ってきました。広島まで進んできた征長軍は、藩主父子の蟄居など様々な条件を突きつけてきちょりましたが、1866(慶応2)年5月、僕らはこれを突っぱね、開戦の道を選んだんです。久坂ら他の同志たちに比べ、僕は死に遅れたと後悔する思いもありましたし、死をも覚悟の上で戦いに挑めば幕府に勝てるとも思うちょりました。


征長軍は、長州に通じる大島口・芸州口・石州口・小倉口の4つの国境から攻め込んで来たので、僕らではこれを「四境戦争」と呼んじょります。僕は小倉口の海軍惣督となり、北九州の小倉から開門海峡を渡って下関に攻め込んでくる征長軍と戦いました。我が1千の兵は、対峙した2万の征長軍とよう戦ったんじゃけど、僕は小倉城を落とした頃から病んじょった結核の症状が酷うなり、立つこともできんようになってしもうたんです。



〈四境戦争関連スポット〉

木戸孝允旧宅
木戸孝允旧宅
木戸孝允が若かりし日々を過ごした瓦葺きの家。
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日和山公園
日和山公園
四境戦争の舞台となった関門海峡を望む公園。高杉晋作の陶像が立つ。
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おもしろきこともなき世に面白く

画像:東行庵にある高杉晋作像


「四境戦争」では長州軍が勝利を重ね、征長軍を見事撃退しました。幕府の威信はガタ落ちとなり、長州藩と同盟を結んだ薩摩藩とが中心になって、倒幕の機運がいよいよ高まっていくんですが、この時、僕に残された時間はありませんでした。


1866(慶応2)年10月、結核に侵され、血を吐いた僕は下関郊外の桜山で療養しちょりました。そこに以前、僕が俗論派に追われちょった際に匿ってくれた福岡の野村望東(のむらぼうとう)殿 がまいられました。「おもしろきこともなき世に面白く」と僕が上の句を詠むと、望東殿が「すみなすものは心なりけり」と下の句を添えてくれました。毛利家への忠義や、高杉家の親や先祖に対する孝行の念に縛られて、ちいっとも自由に生きた感覚はありゃせんのですが、それなりに面白い人生じゃったと思っちょります(笑)。遺言などっちゅうもんも特にありゃせんのですが、同志たちにはせっかくこの国を変える機運を高めたんじゃから、新しい日本を作るまでしっかりやってくれろと言い残しました。


その後、日本は生まれ変わり、外国からの侵略を受けることもなく立派な経済大国になって、外国との交流も盛んに行われちょるようですね。そんな世の中に僕が生きちょったら、世界を股にかけちょったのにと残念でなりません(笑)。今の世を生きちょる皆さんには、ぜひとも僕や松陰先生のように高い「志」を持って、悔いなく生きて欲しいと願っちょります。



〈晋作晩年の関連スポット〉

高杉晋作療養の地
高杉晋作療養の地
結核が悪化した晋作が療養生活を送った地。
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高杉晋作終焉の地
高杉晋作終焉の地
晋作が1867(慶應3)年に生涯を閉じた場所。
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東行庵
東行庵
高杉晋作の菩提をともらうために創建された、霊位礼拝堂。
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高杉晋作ゆかりの地を巡ろう

山口県の萩や下関には、高杉晋作の功績を今に残す史跡や資料館が数多く残っています。晋作ゆかりの地を巡ってみませんか?

  • 萩博物館
  • 高杉晋作誕生地
  • 金毘羅社 円政寺
  • 菊屋横町
  • 旧萩藩校明倫館
  • 萩・明倫学舎
  • 松下村塾
  • 久坂玄瑞誕生地
  • 伊藤博文旧宅
  • 伊藤公資料館(伊藤公記念公園)
  • 涙松跡(萩往還)
  • 吉田松陰防長路惜別の地
  • 松陰神社
  • 下関市立東行記念館
  • 入江九一・野村靖誕生地
  • 奇兵隊陣屋跡
  • 野山獄・岩倉獄跡
  • 来嶋又兵衛誕生記念碑
  • 壇之浦古戦場跡(みもすそ川公園)
  • 赤禰武人処刑場の碑
  • 功山寺
  • 三田尻御舟倉跡
  • 大田・絵堂戦跡記念碑
  • 木戸孝允旧宅
  • 日和山公園
  • 高杉晋作療養の地
  • 高杉晋作終焉の地
  • 東行庵

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ガイドウォーク「古地図を片手にまちを歩こう」

美しい古地図が豊富に残されている山口県。地元ガイドの案内で、古地図を見ながら城下町や宿場町を散策するツアーに参加しよう!「萩城城下町編」「城下町長府編」など、高杉晋作ゆかりの地を巡るコースもありますよ。

ガイドウォーク「古地図を片手にまちを歩こう」
〈 幕末の志士たち・関連記事はこちら! 〉

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晋作が育った「萩城下町」

分厚い白壁の武家屋敷、夏みかんが顔を出す土塀や鍵曲など、かつて城下町として栄えた町並みが色濃く残る「萩城下町」。古民家カフェや雑貨屋、史跡などが点在し、散策の楽しい町になっています。着物をレンタルして町を歩けば、まるで江戸時代にタイムスリップしたような気持ちに!ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか?

晋作が育った「萩城下町」