鎖国時代に海を渡った若者たち 〜長州ファイブの活躍〜

画像:ロンドンで撮影された「長州ファイブ」(萩博物館蔵)


「長州ファイブ」とは、1863(文久3)年に江戸幕府から禁じられていた海外渡航を"密航"により決行した周防、長門の2国(現在の山口県)を治めた長州藩出身の5人の若者たちのことです。

彼らの目的は、イギリスへ渡り先進的な西洋の近代文明を学び、日本を欧米列強に劣らぬ強い国にするため、「生きた器械」となって帰ってくることでした。決死の覚悟で海を渡った彼らの足跡と、帰国後の活躍について紹介します。

鎖国時代に海を渡った若者たち 〜長州ファイブの活躍〜

見つかれば死罪も…決死の覚悟で臨んだ5人の密航

  • 開国の時代を見据えていた周布政之助(山口県文書館蔵)

画像:開国の時代を見据えていた周布政之助(山口県文書館蔵)


1853(嘉永6)年のペリー来航以来、200年以上続いていた幕府の鎖国政策は、外国との交流を受け入れて国を開く"開国"か、これまで通り他国との交流を閉ざし、日本国の独立性を維持する"攘夷"かで揺れ動いていました。


そんな最中の1863(文久3)年にイギリスへ渡ったのが長州藩の伊藤博文、井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、井上勝という5人の若者(以下、長州ファイブ)でした。当時はまだ鎖国下であったため、海外渡航が見つかれば重罪は必至。また、時の14代将軍・徳川家茂も外国嫌いの孝明天皇や、外国の脅威を打ち払おうとする尊皇攘夷諸藩の世論に押され、政権として攘夷を約束していました。5人が所属する長州藩に至っては、長州ファイブが横浜を出向した5月12日の2日前である5月10日に下関の砲台から沖を通る外国船目がけて砲撃を加え、攘夷を声高に主張していたのでした。


攘夷の急先鋒として知られた長州藩が、なぜイギリスに藩の若者を派遣しようと考えたのでしょうか? それは藩の上層部に、今は開国か攘夷かで揺れていても、開国しなくてはならない時代はいずれやってくるので、将来有望な若者を今のうちに海外へ派遣して西洋の文明を吸収させ、そこで得た知識をもって力を備えてこそ、真の攘夷が実現できると考えた開明派の上司・周布政之助の存在があったことが大きかったようです。さらに、そこにはどちらに転んでも長州藩はただでは起きないぞ!というしたたかな戦略もあったのではないでしょうか。


「生きた器械」となって帰ってくる決意

  • 5人の留学を許可した長州藩主・毛利敬親、元徳父子(萩博物館蔵)

画像:5人の留学を許可した長州藩主・毛利敬親、元徳父子(萩博物館蔵)


長州ファイブの留学については、実は当初、航海術や英学を学んでいた山尾庸三と井上勝の2人が、周布に海外へ出て学問を究めたいという思いを打ち明け実現したものでした。そこに自分も加えて欲しいとねじ込んできたのが、当時イギリス海軍の研究をしていた井上馨。遠藤謹助と伊藤博文は、先に留学の許しを得た3人に誘われて加わりました。


しかし、ここで渡航資金が足りないことが発覚します。藩から与えられた資金は先に決まっていた3人に対し、1人あたり200両の計600両でした。この額が多いのか少ないのか見当もつかなかったため、横浜で英語を学んでいた井上勝が、懇意にしていたイギリス領事のジェイムズ・ガワーなる人物に、渡航費に加え現地での生活費や学費について尋ねたところ、1人あたり1年で1000両は必要ということがわかりました。そこで5人は、江戸の長州藩邸で武器の購入費用にと蓄えてあった1万両を担保にして商人から5000両を借り受けます。5人は出航前、「藩の金を勝手に使い申し訳ありません。しかし、決して飲み食いに使うわけではありません。生きた器械を買ったつもりで、どうかお許しください」という並々ならぬ決意を藩の上役に向けて手紙にしたため、船に乗り込んだのでした。


荒れ模様の船出も、無事ロンドン大学に入学

  • 長州ファイブが学んだロンドン大学(道迫真吾氏提供)

画像:長州ファイブが学んだロンドン大学(道迫真吾氏提供)


1863(文久3)年5月12日、横浜から出航した長州ファイブはまず蒸気船に乗って上海へ向かいました。当時、欧米列強の半植民地と化していた上海で5人が見たものは、商社や金融機関、新聞社などが建ち並び、港内を艦船が埋め尽くす西洋文明の圧倒的なプレゼンスでした。メンバーの1人である井上馨などは、伊藤博文らと品川にあるイギリス公使館を焼き討ちしたほどの筋金入りの尊王攘夷の志士でしたが、上海の状況を見てすぐに攘夷を諦め、開国をしなければ日本は滅んでしまうと危機感を抱いたといいます。


上海から5人は、井上馨と伊藤博文がペガサス号に、遠藤謹助、山尾庸三、井上勝がホワイト・アッダー号へ、2隻の帆船に分乗してロンドンへと向かいました。しかし、上海で渡航の目的を聞かれた井上馨が、本来ならば「ネイビー(海軍術)」と答えるべきところを誤って「ネビゲーション(航海術)」と答えてしまったため、5人は船賃を払っているにも関わらず、水夫としてこき使われることになったのでした。


航海中は昼夜を問わず、帆の上げ下ろしや甲板の清掃などを命じられ、食べ物は石のように硬いビスケットと塩漬けの肉という有様で、食べ慣れないものを食べたこともあり、伊藤博文はひどい下痢に襲われました。しかし、船中には水夫用のトイレはなく、博文は井上馨に海に落ちないよう身体を縄で縛ってもらい、船べりから直接海に向かって用を足したというエピソードが残っています。


長州ファイブの密航は、まさに決死の航海となったわけですが、1863(文久3)年11月に無事イギリスへとたどり着いた5人はロンドン大学に入学し、アレキサンダー・ウィリアム・ウィリアムソン教授のもとに身を委ねました。ロンドン大学では、同教授の分析化学などの講義を受け、授業の合間には造船所、美術館、博物館、銀行等々、ロンドン各地を見学してまわり、それぞれが現地で学びたいと考える方向性を見出していったのです。


薩摩スチューデントとの絆

  • ロンドン大学構内にある萩藩・薩摩藩留学生の記念碑(道迫真吾氏提供)

画像:ロンドン大学構内にある萩藩・薩摩藩留学生の記念碑(道迫真吾氏提供)


長州ファイブが留学を果たした2年後の1865(慶応元)年、薩摩藩から4人の視察員と15人の留学生、計19名がイギリスへやってきました。

当時、日本国内では犬猿の仲だった長州藩と薩摩藩ですが、長州ファイブ(井上馨と伊藤博文については、1864年に四カ国連合艦隊の下関攻撃が近づいていることを知って帰国)の1人、山尾庸三は留学生の先輩として、薩摩藩からの留学生をイギリス各地に案内するなどして親交を深めました。

ある時、スコットランドに造船を学びに行きたいと思いながらも資金に窮していた庸三が、そのことを薩摩藩の町田久成に相談すると、久成は他の留学仲間から1人1ポンド、合計16ポンドを集め、庸三にカンパとして送ったという心温まるエピソードが残されています。

日本近代化の基礎を作った長州ファイブ

  • 明治維新の原動力となる人材を育てた松下村塾

画像:明治維新の原動力となる人材を育てた松下村塾


長州ファイブは、それぞれが学びたいこと、日本の将来の役に立ちそうなことを実地を踏まえて勉強し、1868(明治元)年には全員が帰国の途につきました。そして明治という新しい国家体制のもと、出立時の決意の通り「生きた器械」となって、日本の近代化、工業化の舵取りをして、それぞれの道で功績を残しました。「長州ファイブ」とは、そうした彼らの偉業を称える尊称なのです。


ちなみに、出国時に5人が藩から借りた5000両は、結局返済されることはなかったようですが、彼らの帰国後の活躍を見れば、それは決して無駄な投資ではなかったといえるでしょう。5人のストーリーは、新しいものを作るためには、人づくりが欠かせないということを現代の私たちに教えてくれているのではないでしょうか。皆様も長州ファイブの故郷を巡りながら、人づくりを大切にする山口県の歴史と文化に触れてみませんか。


明治国家建設のフロントランナー・伊藤博文

  • 伊藤博文(萩博物館蔵)

画像:伊藤博文(萩博物館蔵)


それでは、長州ファイブの帰国後の功績について見ていきましょう。最初は、のちに初代内閣総理大臣となった出世頭の伊藤博文です。


博文は、初代内閣総理大臣の他にも、初代兵庫県知事、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代立憲政友会総裁、初代韓国統監など、「初代」のつく役職をいくつも経験するなど、近代日本の政治史上で常に中心的な役割を担ってきました。ちなみに44歳での首相就任は、最年少記録で、これは現在でも破られていません。


日本を代表する大物政治家の1人といえる活躍をした博文ですが、明治初期の頃は工部大輔として諸産業の近代化、工業化に尽力し、とりわけ交通、土木、建築などの資材として使われる製鉄技術の近代化に政治の面から貢献しています。政界においては長州ファイブのメンバーだった井上馨と良いタッグを組み、技術官僚となった他の3人の良き理解者として、彼らの活躍をバックアップしました。


鹿鳴館外交を繰り広げた初代外務大臣・井上馨

  • 井上馨(萩博物館蔵)

画像:井上馨(萩博物館蔵)


長州ファイブがイギリスへ渡った半年後の1864(元治元)年3月、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四カ国連合艦隊による長州藩への攻撃が迫っていることを知り、伊藤博文とともに帰国した井上馨。下関戦争は避けることができませんでしたが、馨は戦後の講和条約の締結に活躍しました。その後、倒幕運動に加わり、長州藩内の勢力争いに巻き込まれて瀕死の重傷を負ったものの、奇跡的な回復を果たします。


明治新政府に登用された後は、鹿鳴館外交を繰り広げた初代外務大臣としての功績が有名ですが、それ以前の1870(明治3)年には大蔵大丞兼造幣頭として造幣局の建設を指揮しました。当時は、諸外国との金銀比価の相違が貨幣制度に混乱をもたらしており、その債権に必要な造幣局の建設は不可欠な状況でした。貨幣の鋳造を国内で、しかも人力から機械化するため、イギリス領であった香港から中古の造幣機械を買い入れて、英国人技術者を招き大阪で造幣局を開業させたのは馨の大きな功績の1つといえるでしょう。


日本人技術者で貨幣鋳造を成功させた・遠藤謹助

  • 遠藤謹助(独立行政法人造幣局蔵)

画像:遠藤謹助(独立行政法人造幣局蔵)


イギリス渡航後の1866(慶応2)年に肺病を患い帰国した遠藤謹助は、しばらく長州藩の通訳を担当していましたが、明治新政府ができると1870(明治3)年に大蔵少輔兼造幣頭だった井上馨の計らいによって造幣権頭に抜擢され、翌年から大阪に竣工した造幣寮で働き始めました。しかし当時、造幣寮で実質指揮を執っていたのは、お雇い外国人のトーマス・キンドル。キンドルは寮の建設と機械の据え付けに尽力し、日本の貨幣の信用を高めるために造幣関係の諸規則、諸制度を制定した有能な人物でしたが、独断専行が過ぎるということで謹助は対立し、辞任してしまいます。


その後、造幣寮内でキンドル排斥運動が起こったためキンドルが去り、1881(明治14)年に謹助が造幣局長として復帰を果たしました。謹助は外国人に頼らずに造幣を行うべく技術者の育成に努め、1889(明治22)年に日本人の力だけで初めて新しい銅貨の鋳造を成功させました。また、1883(明治16)年に始まった造幣局構内の桜並木を市民に開放する「桜の通り抜け」は謹助が提案、主導したものとして知られ、現在も大阪の春の名物になっています。


日本を工業国家へと導いた工業の父・山尾庸三

  • 山尾庸三(萩博物館蔵)

画像:山尾庸三(萩博物館蔵)


長州ファイブの中で、彼らが密航前に残した手紙に書いた「生きた器械」となる約束を忠実に果たしたのが山尾庸三と井上勝の2人です。なかでも庸三は5人の中で最も数学が優秀で、伊藤博文と井上馨が帰国した後は、スコットランドのグラスゴーで昼間は造船所で働きながら、夜は学校へ通い知識と技術の両面を吸収しました。


1868(明治元)年に井上勝とともに帰国を果たすと、1870(明治3)年に政府に登用され、民部権大丞兼大蔵権大丞となって工部省設置に尽力。また、翌年には工学教育を担う工学寮(現在の東京大学工学部)創設を実現しました。


1872(明治5)年には工部大輔となり、工部卿時代の伊藤博文や井上馨を実務の面から支えると、1880(明治13)年に工部卿に昇進。明治政府の中で技術官僚としての地位を確立しました。退任後も工学会(現在の日本工学会)の会長を務めるなど後進の育成にも励み、「工業の父」「工学の父」といわれています。また、グラスゴーに留学中、聾唖者が造船所で技術者として立派に活躍していることに感銘を受けた庸三は、日本での盲唖学校の設立にも尽力しています。


鉄道事業に生涯を捧げた鉄道の父・井上勝

  • 井上勝(「子爵井上勝君小伝」より)

画像:井上勝(「子爵井上勝君小伝」より)


密航時、最年少となる21歳の若者だった井上勝は、密航前から航海術や英学を修め、長州藩が購入した軍艦の船長を務めた経験がありました。しかし、その航海で大変な苦労をしたことから、山尾庸三とともに外国行きを藩に願い出ていたことが知られています。また、イギリスではロンドン大学に通い、理化学や地質学などを学びながら、のちに鉱山や鉄道の現場にも出て自らシャベルを握るなど、実地の研鑽にも努めました。


5年間のイギリス留学を経て、帰国後は長州藩の鉱山事務の管理を任されていましたが、1869(明治2)年に新政府の造幣頭兼鉱山正に登用され、国内で鉄道建設がスタートすると政府の鉄道部門の責任者となって、1872(明治5)年に新橋〜横浜間に日本初の鉄道を開通させました。1877(明治10)年、鉄道局長に就任した勝は、工技生養成所を開設して日本人技術者の育成に取り組み、3年後には日本人の手で初めて京都〜大津間の逢坂山トンネルを開通させたほか、1888(明治21)年には新橋〜神戸間の東海道線全通を成功させました。勝はその後も鉄道一筋に生き、晩年も病を抱えながらヨーロッパを視察中に倒れ、1910(明治43)年に第二の故郷ともいえるロンドンで生涯を閉じました。


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