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日本史史上、最大級の改革「廃藩置県」は、長州藩の若者たちによって成し遂げられた!

18世紀半ばに起こった産業革命によって国力をつけた欧米列強がアジアを植民地化し始めた頃、閉塞感が漂いつつあった江戸時代の幕藩体制を改め、日本が1つになって外国に負けない強い国を作ろうとした動きが「明治維新」です。明治維新では、経済の発展と軍事力の強化を図る「富国強兵」政策などが推し進められましたが、これまでの体制を一新し、近代国家の礎となる中央集権体制の確立を目指した政策が「廃藩置県」でした。日本史史上最大級の改革ともいえる「廃藩置県」の実現に尽力した、長州藩出身の若き志士たちの活躍についてご紹介します。

日本史史上、最大級の改革「廃藩置県」は、長州藩の若者たちによって成し遂げられた!

中央集権国家を作るために必要だった「廃藩置県」

  • 版籍奉還により山口知藩事となった長州藩14代当主・毛利元徳(萩博物館蔵)

「廃藩置県」は、250年以上にわたって続いた江戸時代の地方統治システム「藩」を廃止して、新たに明治新政府直轄の「県」を置くという政策です。江戸時代には、江戸の徳川将軍と主従関係を結んだ地方の大名(藩)が、与えられた領地・領民を支配していましたが、外国に負けない強い国家を作るためには、地方に分散した権力を天皇の名の下に新政府へ集める中央集権化が欠かせないと、木戸孝允を中心とする長州藩出身の若き官僚たちは考えていました。


「廃藩置県」に先立ち1869(明治2)年に実施されていた「版籍奉還」でも、すでに全国の藩が所有する領地・領民は天皇に返上されていました。しかし、返上された領地を治める知藩事には、引き続き旧藩領を支配していた旧藩主(大名)が任命され藩政を担ったため、中央集権化は思ったように進んでいなかったのです。

クーデターも辞さない覚悟で臨んだ「廃藩置県」

  • 木戸の片腕となって働いた井上馨(萩博物館蔵)

この状況に危機感を覚えた木戸は、同じ長州藩出身の井上馨や山縣有朋らと図り、薩摩藩出身の大久保利通や西郷隆盛を取り込んで、まず国内屈指の軍事力を持つ薩摩藩、長州藩、土佐藩から御親兵を募り、明治新政府直属の軍隊を編成しました。この動きこそまさに「廃藩置県」への布石で、反発があれば武力を用いたクーデターで一気に決着をつけようという決意の現れだったのです。


なぜ、軍隊まで用意しなくてはならなかったのでしょう? 藩を廃止して、明治新政府直轄の県を置けば、知藩事たちは失職し地位を失うことになるので、これに反発した全国の諸藩が反乱を起こすであろうと想定してのことでした。

「廃藩置県」によって行政システムの改革が実現

  • 「廃藩置県」断行の中心人物、木戸孝允(萩博物館蔵)

1871(明治4)年7月14日、木戸らは在京の知藩事たちを集めて強行的に「廃藩置県」を断行しましたが、予想に反し、知藩事たちからの反発はほとんどありませんでした。その背景には、当時の藩の財政悪化が挙げられます。倒幕戦となった戊辰戦争によって軍事費用の出費がかさみ、諸藩の財政は火の車でした。その借金を明治新政府が肩代わりしてくれ、しかも知藩事はその地位こそ奪われましたが、新政府から引き続き給料が支払われ、華族という特権身分も保証されたからです。


「廃藩置県」によって、まず全国の藩に変わり北海道に「1使」、東京・大阪・京都に「3府」、そして全国に「302県」が置かれ、現在の1都・1道・2府・43県の原型が作られました。また、これにより新政府は日本全土とそこに暮らす人民を直接統治することができるようになって、戸籍の編成や徴兵令の施行、地租改正、警視庁の設置、学制の公布といった中央集権化に欠かせない様々な行政システムの改革を実現できるようになったのです。

幕末の長州藩に、強い国づくりを夢見た男がいた!

  • 長州藩の若者に多大な影響を与えた吉田松陰(萩博物館蔵)
  • 明治維新の原動力となる若者を輩出した「松下村塾」(萩市)
  • 「松下村塾」の講義室

明治時代の日本は「廃藩置県」を機に、近代的な中央集権国家としての歩みを加速させていきますが、これを推進した木戸ら長州藩出身の若者たちは、外国に負けない強い日本を作るためには、どうして中央集権化が欠かせないと考えたのでしょうか? それには長州藩の兵学師範で、教育者でもあった吉田松陰の影響がありました。


三方を海に開かれた長州藩に生まれた兵学者として、松陰はもともと海防に対する高い意識を持っていましたが、江戸への遊学中に1853(嘉永6)年の黒船来航を自らの目で見て、これに武力行使されれば日本は負けると直感。外国の進んだ文明を学んで強い国を作らなければと鎖国下の日本で海外渡航を企てました。しかし、その密航計画は失敗に終わり投獄されてしまいます。のちに出獄が許されて、蟄居謹慎処分になると、実家の片隅で「松下村塾」を開設します。向学心が人一倍強く、教育者としても優れたモチベーターだった松陰の下には、大志ある若者たちが集まってきたのでした。

松陰の志を継ぐ、若き尊皇攘夷派のリーダー

  • 安政の大獄で江戸に護送される松陰が、故郷との別れを詠んだ歌碑(岩国市)
  • 久坂玄瑞誕生地(萩市)

松陰は、1859(安政6)年に幕府の老中暗殺を企てた罪で死罪となりますが、松下村塾で学んだ若者たちが次々に頭角を現していきます。その筆頭に挙げられるのが久坂玄瑞で、彼は松陰が唱えた天皇を中心に国をまとめ、外国の脅威を打ち払おうという「尊皇攘夷」思想に身を捧げていきます。


久坂は学問にも優れていましたが、実行の人でした。幕府が朝廷の許可を得ないまま外国と修好通商条約を結ぶと憤り、幕府が建設していたイギリス公使館を焼き討ちしたり、京の尊皇攘夷派の公家と結んで朝廷に働きかけると、外国人を追い払えと幕府に攘夷を迫ります。久坂らが先導した攘夷の機運に、幕府は1863(文久3)年5月10日を期限に攘夷を実行することを約束したのでした。

攘夷を決行するも、裏では開国を意識!?

  • イギリスへ秘密留学を果たし、のちに初代内閣総理大臣となった伊藤博文(萩博物館蔵)

1863(文久3)年5月10日、長州藩は幕府が決めた攘夷期限に関門海峡に停泊していたアメリカ商船に向かって砲撃を開始します。23日にはフランス軍艦、26日にはオランダ軍艦にも砲撃。すると翌月、アメリカ、フランスの軍艦から次々に報復攻撃を受けます。長州藩の亀山砲台、前田砲台は破壊され、軍艦も沈没させられるなど、近代的な兵器を備えた欧米列強の軍事力の前には、日本の稚拙な軍備では歯が立たないことを白日のもとに晒したのでした。


しかしこの時、長州藩は秘密裏に不可解な行動をとっていました。外国船を打ち払う攘夷をストイックに実行する傍ら、木戸孝允らが主導して、外国の進んだ文明を取り入れるべく、有望な若者5名を選抜しイギリスへ留学させていたのです。秘密留学を果たした5名は、のちに初代内閣総理大臣に就任した伊藤博文。鉱山や貿易などの事業を起こし、初代外務大臣としても活躍した井上馨。工業を起こし、鉄道建設に関わった山尾庸三。新橋〜横浜間に日本初の鉄道を開通させた井上勝。貨幣造幣技術を確立した遠藤謹助でした。攘夷は国を1つにまとめるための方便に過ぎず、長州藩の若者たちは来たる開国の時代を見据えていたのかもしれません。

過激な攘夷によって窮地に立たされる長州藩

  • 尊皇攘夷派の公家7人とともに京から逃れる長州藩士(萩博物館蔵)

攘夷の急先鋒を担い、外国船への砲撃を行った長州藩ですが、その過激な行動を快く思っていなかった孝明天皇や、朝廷・幕府・有力諸侯が協力して国政を担っていこうとする公武合体派の公家や薩摩藩、会津藩らによって、長州藩は1863(文久3)年8月18日に御所を守る役目を解かれ、京を締め出されてしまいました。さらに、京都守護職を務める会津藩の松平容保が新撰組を使って尊皇攘夷派の取り締まりを強化すると、1864(元治元)年6月には京の池田屋で、松下村塾門下の吉田稔麿などが惨殺される事件が起こります。


この知らせを受け復讐に燃える久坂ら、長州藩の過激派は軍を率いて京に進発。久坂は失地回復を求めて朝廷への嘆願を続けましたが、武力に訴えてでも汚名を晴らすべきだと主張する藩の重臣・来島又兵衛らを抑えることができず、長州軍は京へ進撃を開始します。会津藩が守る蛤御門付近では、激戦が繰り広げられましたが、そこへ薩摩の西郷隆盛が会津の援軍に駆けつけると長州軍は劣勢に立たされ敗北。禁門の変と呼ばれるこの戦で久坂は命を落としました。

次々に襲いかかる難局を打破したのは…

  • 倒幕運動を指揮した高杉晋作(萩博物館蔵)
  • 高杉が兵を挙げた功山寺(下関市)
  • 功山寺にある高杉晋作回天義挙像

京を追われ、政治的な発言力を失った長州藩に1864(元治元)年8月、さらなる危機が訪れます。前年の攘夷実行の報復として、イギリス、フランス、アメリカ、オランダによる四国連合艦隊が、軍艦17隻、砲288門、兵5千で下関を攻撃。馬関戦争と呼ばれるこの戦いで、長州藩は惨敗を喫します。


さらに、禁門の変で御所に向かって発砲した長州藩に対して孝明天皇が怒り、幕府に長州征伐を命じました。長州藩では幕府に恭順を示す俗論派と、武装してこれを迎え撃つ正義派に分かれ揺れていましたが、松下村塾で久坂とともに双璧といわれ将来を嘱望されていた高杉晋作が下関の功山寺で兵を挙げると、大田・絵堂の戦いで俗論派を撃破。藩を倒幕へと導いていきます。わずか80騎ほどの手勢で挙兵した高杉を支えたのは、師の吉田松陰が語った「死して不朽の見込みあれば、いつでも死ぬがよい」という言葉でした。

新たな国づくりのために、天敵・薩摩藩と結ぶ

  • 薩長同盟締結に尽力した坂本龍馬(萩博物館蔵)

藩論を倒幕に統一した長州藩ですが、禁門の変で朝敵とされてしまったため、外国から近代的な武器を仕入れようとしても、外国商人は取引をしてくれませんでした。武器がなければ戦はできないと頭を抱える木戸のもとに、土佐藩出身の坂本龍馬が薩摩藩の西郷隆盛との会談を持ちかけてきます。


会談は1866(慶応2)年に京の薩摩藩邸で実現しましたが、長州藩も薩摩藩も互いに藩の面子にこだわり話がなかなか前へ進みませんでした。しかし、遅れて駆けつけた龍馬の執りなしによって両者は歩み寄ります。木戸は薩摩藩が幕府の長州征伐に参加しないことなど、会談で取り決められた6箇条を文章化し、それに龍馬が裏書きをする形で薩長同盟が成立しました。また、頼みの武器については、龍馬が仲介して薩摩藩名義で購入し、長州藩へ渡すことが決まります。

四境戦争で幕府を破り、倒幕へと突き進む

  • 高杉晋作・山縣有朋が率いる奇兵隊などが活躍した九州小倉合戦図(萩博物館蔵)
  • 大村益次郎が指揮した石州口での戦いの様子(萩博物館蔵)

1866(慶応2)年5月1日、幕府は長州藩に対して10万石の削減や、藩主父子の隠居などを申し付けてきましたが、藩論を倒幕へと定めた長州藩はこれを無視すると、幕府による第2次長州征伐が勃発します。6月7日に大島口で始まったこの戦争は、芸州口、石州口、小倉口という長州へつながる4つの国境での戦いになったことから、長州藩ではこれを四境戦争と呼んでいます。


この戦いでは、高杉が軍艦を率い海戦で活躍。西洋兵学に長けているということで医者から抜擢された大村益次郎は石州口において、仕入れたばかりの最新兵器と西洋式に訓練した軍隊を操って次々に勝利を収めていきます。この戦いは8月21日に幕府軍の指揮を執った14代将軍の徳川家茂が大阪城で亡くなったことにより終戦。長州藩の大勝利に終わったのでした。

15代将軍・徳川慶喜との頭脳戦を制し、明治維新へ

  • 鳥羽・伏見の戦いの様子を描いた毛理嶋山官軍大勝利之図(萩博物館蔵)

14代将軍・家茂の死後、15代将軍に徳川慶喜が就くと、慶喜は「大政奉還」を行い政権を朝廷に返上することで、長州・薩摩による倒幕の勢いを逸らそうと画策します。しかし、倒幕派は岩倉具視などの公家とともに、1867(慶応3)年12月9日に「王政復古の大号令」を発し、天皇を中心とする新政府の樹立を宣言。土佐藩主・山内容堂や越前藩主・松平春嶽などは、慶喜の新政府への参画を求めますが、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通などの徳川排除の勢力が勝り、結局15代将軍・慶喜の官位剥奪と幕府領の返納が決まりました。


1868(慶応4)年1月3日、これを不服とする旧幕府軍と新政府軍が、京の鳥羽・伏見の戦いで激突すると、国を二分する戊辰戦争へと発展します。長州藩、薩摩藩を中心とする新政府軍は、最新式の兵器と西洋式に統率の執れた軍隊で終始優位に戦いを進め、4月11日には江戸城が明け渡されます。7月17日、江戸は東京と改称され、9月8日には元号も明治と改められて、見事明治維新が成し遂げられたのでした。

武士の時代の終焉と、その後の長州藩出身者の活躍

  • 木戸孝允旧宅(萩市)
  • 伊藤博文旧宅(萩市)
  • 山縣有朋誕生地(萩市)

徳川幕府による江戸時代は終わり、近代日本の幕開けとなる明治時代になりましたが、長州藩を倒幕へと導いた若者たちが目指したのは、単に幕府を倒すことだけではなく、武士の世の中を終わらせ、外国と対等に渡りあっていけるだけの強い中央集権国家を作ることでした。そのため木戸らは、反発があればクーデターを起こすことも辞さない覚悟で「廃藩置県」の実施に心血を注いだのです。


木戸の死後、偉大なる長州藩の先達の志を受け継ぎ、日本の近代化に邁進したのが松下村塾出身の伊藤博文でした。伊藤は1885(明治18)年に内閣制度が発足すると初代内閣総理大臣に就任します。1889(明治22)年には、同じく松下村塾門下で、戊辰戦争や西郷隆盛が不平士族とともに反乱を起こした西南戦争でも活躍した山縣有朋が第3代内閣総理大臣に就任。現在まで、山口県からは全国最多の8名もの総理大臣を輩出していますが、内閣制度など現代にも受け継がれている日本の行政システムの土台が作られたのが明治維新です。「廃藩置県」は、まさにその土台中の土台で、長州藩の若者たちが目指した強い国家づくりの基盤だったのです。「明治維新胎動の地」といわれる山口県には、彼らが命がけで臨んだ変革への道筋を示す史跡が数多く残されています。ぜひ一度、旅をしながらたどってみてはいかがでしょうか。

明治維新の偉大なる制度改革「廃藩置県」

大河ドラマや歴史ものの映画で何度も取り上げられる「幕末」と「戦国時代」は、日本史の中でも最もファンが多い、人気のある時代と言っても過言ではありません。個性豊かな群雄が割拠し、それぞれが自国の領土や勢力を拡大するために命をかけて戦った「戦国時代」はもちろん魅力的ですが、国のあり方に疑問を抱いた若者たちが、出自の枠を超えて日本という1つの国の将来について真剣に考え、行動した「幕末」からは、新しい社会のあり方を模索する現代に生きる私たちにとっても身につまされる切迫感のようなものが伝わってくるような気がします。そんな時代の転換期を生き抜いた若者たちによって、見事成し遂げられた明治維新における偉大な制度改革の1つが「廃藩置県」です。現代における「道州制」などの議論が全くといっていいほど進まない状況を鑑みても、その難易度が推し量られるのではないでしょうか。


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