松下村塾では何を教えた?わずか8畳から明治維新の立役者を輩出した理由
松下村塾を主宰した吉田松陰(よしだしょういん)が、塾生たちを教えたのはたった2年あまり。しかし、松下村塾のわずか8畳の学舎からは、久坂玄瑞(くさかげんずい)、高杉晋作(たかすぎしんさく)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、山縣有朋(やまがたありとも)といった明治維新の原動力となる若者たちが数多く輩出されました。
松下村塾で行われた新時代を切り拓く教育とは、どのようなものだったのかご紹介します。
※本稿は一定の文献等をもとに制作していますが、歴史や人物の評価については様々な解釈があるため、認識が異なる場合にはご容赦ください。
画像:松下村塾講義室

時代を動かした「わずか8畳」の学び舎

入口に掲げられた「松下村塾」の看板
山口県萩市椿東にある松陰神社。その境内に今も保存されている松下村塾は、吉田松陰の叔父である玉木文之進(たまきぶんのしん)が始めた私塾でした。塾名は当時、このあたりが松本村と呼ばれていたことから松本村の「本」に「下」の字をあてて、松本村の塾という意味で「松下村塾(しょうかそんじゅく)」と名付けられました。

松下村塾は「明治維新胎動之地」として国指定史跡、ならびに世界遺産に登録されている(萩市観光協会提供)
松下村塾を実際に訪ねてみるとわかると思いますが、講義室はわずか8畳(のちに塾生が増えたため、10畳半を増築)の質素な部屋。しかし、この小さな塾舎から、幕末から明治にかけての日本をリードした人材が次々と輩出されました。松陰が松下村塾で塾生たちを教えた期間はたったの2年ほどでしたが、その短い期間で、松陰はいかに明治維新の原動力となる若者たちを育てていったのでしょうか。松下村塾で行われていた教育とは、どのようなものだったのか紐解いてみます。
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松陰先生の言葉
万巻の書を読むに非ざるよりは、寧んぞ千秋の人たるを得ん。一己の労を軽んずるに非ざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん。 『松下村塾聯』安政3年
「たくさん本を読まなければ、立派な人にはなれません。労苦を惜しむようでは、世の中のためには尽くせません」という意味。塾生たちを励ますように、松下村塾にある床の間の柱にこの言葉が刻まれています。
19歳で大学教授!? 神童と称えられた青年が教育に目覚めるまで

吉田松陰肖像画(山口県文書館所蔵)
吉田松陰は、天保元(1830)年に長州藩萩の松本村(現在の山口県萩市椿東)の下級武士・杉家の次男として生まれました。5歳で藩の兵学師範であった親戚の吉田家の養子となり、叔父の玉木文之進に英才教育を施されます。11歳のときには藩主・毛利慶親(よしちか)(のちの敬親(たかちか))の前で山鹿流兵学書を講義するなど秀才ぶりを発揮し、19歳で兵学師範として独立。現代でいうところの大学教授のようなポストに就き、神童と称えられていました。

下田沖に停泊中の黒船を見て、密航を企てる『吉田松陰絵伝、第八、下田』(萩博物館所蔵)
嘉永6(1853)年、江戸遊学を果たした松陰は、日本中を揺るがす大事件「黒船来航」と遭遇。ペリー艦隊の圧倒的な軍事力を目の当たりにした松陰は、「こんな軍艦に攻め込まれてはひとたまりもない。何とかしなければ!」と考え、翌年、再び来航した黒船に密かに乗り込み、アメリカへ渡って勉強したいと訴えます。しかし、その願いは拒否され、松陰は密航を試みた罪で捕まり、萩に送り返されたのでした。

野山獄で読書に勤しむ『吉田松陰先生絵伝、第九、獄』(萩博物館所蔵)
萩で長州藩の獄舎である野山獄に収容された松陰は、初めのうちは読書に勤しんでいましたが、そのうち獄は罪人が教育を受け、更生するための施設でなければいけないと考えます。そこで囚人を相手に『孟子』の講義を始め、さらに理解を深めるための輪講会を実施したり、日本の外交や国防といった時事問題についても議論を交わすようになりました。
野山獄で囚人たちと交流を深めるなかで、松陰はある囚人がとても字が上手いことに気づきました。すると松陰はその囚人を褒めて、「私にも教えてくれませんか?」と言い、字を習い始めます。俳句がうまい囚人がいれば、俳句を学びました。こうした勉強会を続けるうちに、囚人たちは互いに教え、学び合い、牢の役人までもが松陰の講義に耳を傾けるようになっていったそうです。獄中での教育に手応えを感じた松陰は、教育者としての才が開眼。これがのちの松下村塾での教育につながっていきました。
- 野山獄
- 吉田松陰の教育の原点となった獄の跡

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松陰先生の言葉
人賢愚ありと雖も、各々一、二の才能なきはなし、湊合して大成する時は必ず全備する所あらん。 『福堂策 上』安政2年
野山獄での獄中教育の経験から得た言葉で、「人の能力に違いはあっても、誰でも1つや2つは優れた才能がある。それを育てていけば、必ずその人なりの個性を持った立派な人間になるだろう」という意味。これがのちに松下村塾で行われた個性を伸ばす教育方針につながっています。
「個性を伸ばす」松下村塾の教育方針

松下村塾の講義風景『吉田松陰先生絵伝、第十、松下村塾』(萩博物館所蔵)
安政2(1855)年、野山獄から出て、実家の杉家で幽囚の身となった吉田松陰は、親族を相手に『孟子』の講義を始めました。すると近所の若者たちが勉強を教わろうと集まるようになり、杉家の庭先にあった小屋を改装して塾舎としました。ここに松陰主宰の松下村塾が誕生します。
松下村塾には「礼法を寛略(かんりゃく)にし、規則を擺落(はいらく)する」という教育方針がありました。これは安政5(1858)年に松陰が塾生たちに示した訓示文『示諸生(しょせいにしめす)』に書かれていて、形式的な礼法や細かな規則を重んじるのではなく、自由な雰囲気のなかで、互いに心を通わせて学ぶことが大切だという意味です。野山獄での獄中教育の経験から、松陰は塾生たちの個性を尊重したいと考え、塾生たちに「同志」「諸友」として対等に接し意見を交わすことで、その人らしい考え方を育てようとしたのではないかと考えられています。
教えるのではなく、ともに考える塾

松下村塾
松下村塾ではどのような教育が行われていたのでしょうか。吉田松陰は当時の武士の一般教養とされていた儒学、兵学に加えて、歴史、地理、経済、倫理などを題材にしながら、「どう生きるか」「何を志すか」を塾生に考えさせる教育を行ったとされています。時節柄、国際情勢には特に力を入れていて、日本が欧米の列強とどう向き合うべきかという問題意識を塾生たちに植え付けました。
授業の形態は、松陰の講義だけでなく、塾生それぞれの興味や、学問の習熟度に合わせて、数人のグループで書を読み、議論をさせていました。知識をインプットするだけでなく、自分で考え、言葉にし、人前で主張することに重きをおいていたようです。
また、長州藩の藩校・明倫館(めいりんかん)が上級武士の子息のみを受け入れたのに対し、松下村塾は身分や年齢を問わずに門戸を開き、師である松陰と塾生たちが学び合う「共学」の場でもありました。自由闊達な雰囲気のなかで、ともに学び合い、互いに意見をぶつけ合うことで、論理的思考力、表現力が鍛えられたことが、のちに政治や軍事、行政の第一線で活躍する人材を多く輩出した理由の一つといえるでしょう。
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松陰先生の言葉
学は人たる所以を学ぶなり。 『松下村塾記』安政3年
「学問とは、人としての生き方を学ぶことだ」の意。吉田松陰は入塾を希望する若者に「なぜ学ぶのか?」と問いかけてきました。その問いに対する松陰自身の答えが、この言葉にあらわれています。
松陰がその才能に惚れた男・久坂玄瑞

久坂玄瑞(山口県立山口博物館所蔵)
尊王攘夷派のリーダーとして活躍した久坂玄瑞は、天保11(1840)年に長州藩の藩医を務める久坂家の三男として生まれました。若くして両親と兄を相次いで亡くしますが、兄の親友で勤王僧だった月性(げっしょう)の私塾「清狂草堂(せいきょうそうどう)」や、藩の医学所・好生館(こうせいかん)で学びました。17歳のときに遊学した九州で、松陰の友人で尊王攘夷派の活動家であった肥後藩士の宮部鼎蔵(みやべていぞう)と出会い、松陰に師事することを勧められます。久坂は帰藩後、松陰に日米修好通商条約の締結を目論んで、安政3(1856)年に来日したアメリカ使節のハリスを「斬るべし」と訴えた手紙を松陰に送りますが、松陰からは「思慮が浅い」とたしなめられて、その後何度かの手紙による激論を戦わせたのちに松下村塾の門下生となりました。このやり取りから松陰は久坂の非凡さを感じ取り、久坂を「防長年少中第一流」と評し、安政4(1857)年に松陰の妹・文と結婚させました。
松陰亡きあとは、尊王攘夷運動のリーダーとして活躍。松陰の遺志を最も強く受け継いだのは久坂だったかもしれません。しかし、尊王攘夷派が勢力挽回を図ろうと決起した元治元(1864)年の禁門の変で敗れ、24歳の若さで自刃。志半ばでこの世を去っています。
- 久坂玄瑞誕生地
- 自慢の門下生の一人・久坂玄瑞が生まれた場所

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- 妙円寺(月性展示館・清狂草堂)
- 長州藩における尊王攘夷思想の先駆者・月性ゆかりの地

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- 寺島忠三郎関連史跡
- 久坂とともに禁門の変で自刃した寺島忠三郎ゆかりの地

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松陰先生の言葉(番外編)久坂玄瑞の言葉
草莽の志士 糾合義挙の外にはとても策これなき事と、私ども同志うち申し合いおり候事に御座候 『武市半平太への手紙』文久2年
吉田松陰が唱えた「草莽崛起(そうもうくっき)」論にならい、久坂が土佐藩で尊王攘夷派の急先鋒として活躍していた武市半平太に宛てて「草の根の志士が決起するほかに手立てはない」と書いた手紙。この手紙を武市のもとにもたらしたのは坂本龍馬といわれています。
奇兵隊を創設した幕末の風雲児・高杉晋作

高杉晋作『近世名士写真 其2』(国立国会図書館デジタルコレクション)
久坂とともに松下村塾の双璧といわれた高杉晋作は、天保10(1839)年に毛利家に代々仕えた上級武士の家に生まれ、14歳から藩校・明倫館に学びました。幼馴染の久坂に誘われて、安政4(1857)年に松下村塾に入門。当時、高杉の学問は未熟で、何でも自分流に解釈する悪癖がありましたが、松陰は直感で物事の正しいか否かを嗅ぎ分ける嗅覚がある「有識の士」と評しました。しかし、プライドが高く、欠点を指摘したら塾に通わなくなってしまうことを恐れた松陰は、高杉が久坂にライバル心を持っていることに気づき、高杉の前で久坂を褒めることで、高杉を発奮させます。負けん気の強かった高杉は、それから猛勉強を始め、久坂とともに松下村塾の「双璧」「龍虎」などと評されるようになりました。

功山寺に建つ高杉晋作決起の像
松陰亡きあと、高杉に転機が訪れました。文久2(1862)年に西洋列強に支配された上海を視察する機会を経て、師と同様に危機感を募らせた高杉は、身分を超えて志ある庶民で組織する西洋式の軍隊・奇兵隊を創設します。その後、元治元(1864)年に久坂ら長州藩の尊王攘夷急進派が京へ進発した際には、決起を思いとどまらせようと使者に向かいましたが、役目を果たすことができず脱藩。これにより松陰も投獄された野山獄に入れられた高杉は、亡き師を思い「先生を慕うてようやく野山獄」の句を残し、決意を新たにするのでした。そして、幕府による長州征伐が迫り、幕府への恭順論が優勢となった藩内でクーデターを起こすと、藩の方針を倒幕へと向かわせることに成功。小倉戦争などで活躍しましたが、慶応3(1866)年に患っていた結核により病没。享年29。
- 高杉晋作誕生地
- 幕末の風雲児とも呼ばれる高杉晋作が生まれた地

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- 金毘羅社 円政寺
- 高杉晋作や伊藤博文が幼い頃、遊んだ寺

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- 功山寺
- 高杉が倒幕を志し、決起した寺

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- 日和山公園
- 小倉戦争で活躍した高杉晋作の陶像がある

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- 東行庵
- 高杉の愛妾おうのが初代庵主となった菩提の地

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松陰先生の言葉
死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。 『高杉晋作への手紙』安政6年
男はいつ死ぬべきかという高杉の質問に、答えを探し続けていた吉田松陰が、獄中から差し出した手紙。「後世まで名を残すようなことができたらならいつ死んでもいい。生きて大業を果たす見込みがあるならば、いつまでも生きよ」の意。
農民の子から、明治の元勲にまで昇りつめた伊藤博文

伊藤博文『近世名士写真 其1』(国立国会図書館デジタルコレクション)
日本の近代国家としての枠組みを作ったことで知られる伊藤博文は、天保12(1841)年に周防束荷村(現在の山口県熊毛郡大和町)の農民の子として生まれました。のちに父が長州藩の足軽・伊藤家の養子となり、家族揃って松下村塾の近くに引っ越してきたことから、安政4(1857)年に松下村塾へ入門。松陰は伊藤のことを「才能は劣り、学力も未熟だが、性格が素直で飾りがなく、僕はとても愛している」「将来は周旋家(政治家)になりそうだ」と評しています。

伊藤公記念公園に建つ伊藤博文像
松陰亡きあとは、久坂や高杉とともに、品川の英国大使館焼き討ちを決行するなど、尊王攘夷運動に身を捧げていましたが、文久3(1863)年に井上馨らとともにイギリス留学を果たした後は、藩に開国を説くようになりました。松下村塾時代から2つ年上の高杉を兄のように慕っており、高杉が藩内で決起した際には真っ先に駆けつけ、クーデターを成功させるのに一役買いました。明治維新後は、松陰が評したように政治家として活躍。政府の要職を歴任したほか、大日本帝国憲法の制定に尽力するなど、近代化に邁進する日本の政治をリードしました。明治18(1885)年に内閣制度が発足すると、初代内閣総理大臣に就任。その後も三度に渡って総理大臣を務めています。
幾多の実戦経験を経て、近代陸軍を創設した山縣有朋

山縣有朋『近世名士写真 其1』(国立国会図書館デジタルコレクション)
明治維新後に日本陸軍の父と呼ばれた山縣有朋は、天保9(1838)年に萩城下の川島村(現山口県萩市川島)の下級武士の家に生まれました。幼い頃から槍の修業に励み、宝蔵院流槍術の使い手として藩内でも有名でした。安政5(1858)年に藩から命じられて京都の情勢を探るため、伊藤博文らと行動をともにしたことがきっかけとなり、帰藩後、松下村塾に入門。その翌月、松陰が刑死したため、松下村塾での山縣のエピソードはあまり残されていません。しかし、山縣は松陰から大きな影響を受けたと終生語り、生涯「松陰先生門下生」を称し続けました。山縣が自らの名を「狂介」と改名していた時期があるのは、松陰が生前よく口にしていた陽明学の「狂」という概念(周囲におもねることなく、一途に自分の理想を追求せよという意味)に強く影響を受けていたからと考えられます。

萩市中央公園に建つ山縣有朋の騎馬像(萩市観光協会提供)
塾生としての期間は短かったものの、山縣は数多くの戦に参加して、軍事的才能を発揮します。元治(1864)元年に起きた四国連合艦隊との下関戦争や、慶応2(1866)年の第2次長州征伐では軍監として奇兵隊を率いて活躍したほか、慶応4(1868)年の戊辰戦争では、新政府軍の諸藩兵を指揮して数々の武勲を挙げました。豊富な実戦経験から、明治政府では陸軍卿として近代陸軍の整備に力を注ぎ、「日本陸軍の父」と呼ばれました。明治22(1889)年には第3代内閣総理大臣に就任。その後も元帥・元老として政界に大きな影響力を持ちました。
- 山縣有朋誕生地
- 松下村塾門下生であることを誇りにした山縣が生まれた場所

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なぜ、松下村塾から多くの志士が生まれたのか?

道の駅「萩往還」にある高杉晋作、吉田松陰、久坂玄瑞の像(左から)
吉田松陰は黒船来航後の日本の危機に対して、自分が何とかしなければと本気で考え、行動した人でした。松下村塾では、そんな師・松陰の存在が生きた手本となり、若者たちの心に火を付けたのではないかと考えられます。
松陰はまた、塾生一人ひとりの性格や能力をよく観察して、その個性を伸ばす指導をしていたとされています。一人ひとりに励ましの文を書いて送り出すなどしたため、塾生にも「自分は大切にされている」「自分にも役目がある」という自覚が芽生え、強い信頼関係が育まれていきました。
授業では、松陰による一方的な講義ではなく、議論や討論を重視した点も見逃せません。皆で議論することによって自分の頭で考え、言葉にすることができる人材が育っていきました。また、松陰は陽明学の「知行合一(ちこうごういつ:知識を頭に入れるだけでなく、それを実践してはじめて本当の知となるという意味)」という考え方を大切にしていたため、塾生たちは机上の勉学に満足せず、「日本のために何ができるか」という問いを自ら引き受け、倒幕や明治維新の中核を担う志士へと成長していきました。
さらに言えば、松下村塾は師弟がともに学び、寝食をともにして、時には畑仕事したり、夜遅くまで議論し合ったりする、学びと生活が一体になった共同体でした。これが1人の優等生だけでなく、行動力あふれる志士の集団の形成に大きく寄与したといえるでしょう。
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松陰先生の言葉
松下陋村と雖も誓って神国の幹たらん 『村塾の壁に留題す』安政5年
松陰が野山獄へ再び収監される際に、松下村塾に遺した詩。「田舎の村にある小さな塾だが、必ず日本を支える太い幹になろうではないか」という意味で、塾生たちに高い志を持ち続けることの大切さを教えています。
志を遂げるために行動する師の姿勢が、塾生たちの心に火をつけた

吉田松陰の遺書『留魂録』(松陰神社所蔵)
安政5(1858)年、幕府が天皇の許可を得ずに日米修好通商条約の締結を強行したことに激しい怒りをおぼえた松陰は、長州藩に意見書を送り、「将軍は天下の賊である。大義に照らしてこれを誅滅しなければならない」と非難。さらに幕府の要職である老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を企て、襲撃のための武器の提供を藩に要請しました。過激な行動に出る松陰を藩は危険視し、松陰は再び野山獄へ投獄されます。
安政6(1859)年10月27日、江戸に移送された松陰は老中暗殺を企てた罪で斬首。刑が執行される前に、獄中から塾生たちに向けて書いた『留魂録(りゅうこんろく)』では、尊王攘夷の志を遂げるためには、不可能と思えることにも挑まなければいけないというメッセージを遺しました。これが起爆剤となり、塾生たちは次々に行動を起こします。久坂は尊王攘夷運動に身を捧げ、勝ち目のない禁門の変に挑み、高杉は身分を問わない新しい軍隊・奇兵隊を組織し、倒幕を先導しました。伊藤は松陰が叶えることができなかった海外渡航を果たし、その知見を活かして近代国家の礎となる憲法を作成。山縣は武人として旧幕府軍との戦いに先陣を切って臨み、その後は近代陸軍の創設に力を注ぎました。松陰の死から9年。江戸幕府は倒れ、明治維新が成立。松陰が蒔いた種は、多くの志士たちに受け継がれ、新しい国づくりに結実したのでした。
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松陰先生の言葉
身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂 『留魂録』安政6年
「自分の体は江戸で亡くなっても、自分の魂、志だけは留めたい」と、松陰が処刑される前日に塾生たちに向けて書き上げた『留魂録』の冒頭に記した句。この後、松陰は「もし同志のみんなが私の真心を感じ取り、志を受け継いでくれるなら、私は未来に続く種子を残せたことになり、胸を張って実り豊かな人生だったと思える」と続けました。
明治維新はここから動き出した! 松下村塾の見どころ

講義室に飾られている肖像画、聯、石膏像
吉田松陰が塾生たちとともに学び、多くの維新の志士たちを輩出した松下村塾。その学舎は、当時とほぼ同じ場所、規模で今も現存しています。木造瓦葺きの8畳の講義室と、あとから塾生たちの手によって増築された10畳の計18畳ほどしかないこぢんまりとした空間から、明治維新という大変革が動き出しました。
8畳の講義室には松陰の肖像画や石膏像などが置かれ、「本をたくさん読まなければ立派な人にはなれません」と書かれた松下村塾聯(れん)があります。ここで松陰と塾生たちが、国のあり方について熱い議論を交わしていました。講義室の奥の3畳間には、松下村塾四天王に数えられる久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿(よしだとしまろ)、入江九一(いりえくいち)をはじめ、ここを巣立って明治維新をリードした人物の写真や肖像画が飾られていて、このような小さな私塾が近代国家の形成に与えた影響の大きさを知ることができます。
隣接する松陰神社宝物殿・至誠館では、獄中の松陰が塾生に宛てた遺書『留魂録』や松陰自ら賛(さん)を入れた肖像画など、松陰ゆかりの品々が保存、展示されているので、ぜひ見学してみてはいかがでしょうか。
- 松下村塾
- 幕末の志士たちを多く輩出した明治維新胎動の地

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松下村塾周辺にある「ゆかりの地」を巡ろう!
松下村塾の周辺には、吉田松陰や伊藤博文など塾生たちに関連する史跡や資料館が数多くあります。これらを巡ることで「明治維新胎動之地」と呼ばれる歴史のダイナミズムを感じてみてください。
〈 史跡を巡る 〉
〈 史料館で学ぶ 〉
松下村塾が問いかける現代へのメッセージ

アメリカ密航を試みた金子重之輔とともにたたずむ吉田松陰像
吉田松陰がこの世を去ってから、すでに160年以上が過ぎました。しかし、松陰の言葉や行動は、今を生きる私たちにも大切なメッセージを投げかけているように感じられます。それは、「何のために学ぶのか」という志を自ら立て、その志を分かち合える仲間とともに行動することの大切さと、どんなに小さな一歩であっても歩みを止めず、決して諦めてはならないということ。松陰は、それを自らの行動で示したのではないでしょうか。
松下村塾のお膝元である山口県では、松下村塾から育った人材が明治維新を成し遂げた歴史を踏まえ、地域の課題を見つけ協力して解決する力や、新しい価値を生み出す力を育む様々な人づくりプロジェクトを推進。松陰が教鞭をとった萩藩校明倫館の跡地に建つ萩市立明倫小学校においては、毎朝、児童たちが松陰の遺文から選ばれた一節を声に出して朗唱する時間が設けられるなど、初等教育の段階からより高い自己実現への意欲を高める取り組みが実践されています。
松下村塾の教えは、現代社会を生きるうえでも通じるメッセージにあふれています。その原点に触れることができる山口県を、ぜひ訪れてみませんか。

























