作家・宇野千代とは?波乱万丈な生涯と故郷・岩国で育まれた人生観
2026年秋に放送予定の連続テレビ小説「ブラッサム」の主人公のモデル・宇野千代は、山口県岩国市出身の小説家、編集者、着物デザイナーです。千代が幼少期を過ごした岩国の風土や、岩国時代の家族との関係性は、その後の彼女の文学や着物デザインの作品世界に強い影響を与えました。千代が作家としてデビューする前の岩国時代のエピソードを交えながら、明治、大正、昭和、平成という4つの時代を自由奔放に生きた彼女の生涯をご紹介します。
メイン写真提供:株式会社宇野千代
資料協力:株式会社宇野千代、世田谷文学館、宇野千代顕彰会

宇野千代って、どんな人?

初めて自分でデザインした着物を着た千代(写真提供:世田谷文学館)
昭和初期から戦後にかけては、新しい文学や芸術運動などが盛んで、文士たちの言葉にも影響力があり、作家の恋愛や私生活までもが世間の注目を集める時代でした。小説家であり、日本初の女性ファッション誌を創刊した編集者でもあり、着物デザインを手掛けるなど、幅広い分野で活躍した宇野千代は、そんな時代を象徴する存在です。
千代の代表作『おはん』は、妻と愛人の間で揺れ動く男の心情を描いた昭和文学の名作。自叙伝『生きて行く私』には、嫌なことはすぐに忘れ、感動したことに対しては即行動に移して、ひたむきに生きていく彼女の人生観がみずみずしく描かれ、ベストセラーになりました。私生活においては4度の結婚〜離婚を経験するなど、恋多き女性として、その自由奔放な生き方が時代を超えて、今も多くの人々を魅了し続けています。好奇心旺盛で、どんなときも夢中で生きることを人生の目的とした彼女の生き方には、幸せは自らつかみに行くものというポジティブなメッセージが込められています。
生母との死別。継母に愛された少女時代

生母を亡くした2歳頃の千代(写真提供:世田谷文学館)
宇野千代は、1897(明治30)年11月28日に山口県玖珂郡横山村(現在の山口県岩国市川西)に生まれました。生母のトモは、千代が2歳になるまでに肺結核でこの世を去ります。母が亡くなってから、千代はしばらく父の生家の造り酒屋に預けられていましたが、実家に戻ったときには、父は17歳のリュウを後妻として迎えていました。
その後、リュウと父の間には4人の弟と1人の妹が生まれましたが、リュウは千代に実子と分け隔てない愛情を注いだため、千代も異母弟妹の世話をよくし、小さなお母さん役を果たしたといいます。後年、千代と親交のあった小説家の広津和郎(ひろつかずお)は、千代に「あなたは弟妹たちを惣領のようによく面倒をみる」と感心していたとか。この面倒見の良さが、のちの千代の恋愛にも影響していきます。
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10代まで過ごした岩国の生家
明治期のひなびた佇まいが特徴のこの家は、千代の父がこの地に定住を始めた際に、庄屋をしていた人の家を買い取ったものだそう。継母リュウが亡くなってから、14〜15年間は故郷の土を踏むことがなかった千代ですが、生家が朽ち果てようとしていることを聞きつけると、その修復に夢中になりました。その後、千代の希望によりほぼ昔のままに復元され、1974(昭和49)年に完成。300坪ほどある敷地にはたくさんの紅葉が植えられ、その中に仏頭を配すなど、千代の美意識が遺憾なく発揮されています。
画像:紅葉の時期の宇野千代生家

成績優秀だった学生時代

千代が通った岩国学校(現在の岩国学校教育資料館)
日露戦争が勃発した1904(明治37)年、千代は岩国尋常小学校に入学し、1910(明治43)年には全甲(現代でいうところのオール5!)で卒業。同年4月からは、玖珂郡立岩国高等女学校(現在の岩国高等学校)に進学しました。女学校での成績も抜群で、全15教科の平均点は92点だったとか。またこの頃、書いた作文でも後に作家となる文才をみせています。
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子供の頃の好物は「いが餅」
千代が子供の頃に好んでいたお菓子は、広島や岩国などで親しまれていた郷土菓子「いが餅」です。こしあん入りの小さなお餅の上に、赤、黄、青などで色付けされたもち米がまぶされた素朴な味わいが特徴。岩国ではしばらく作られなくなっていましたが、千代の「故郷のいが餅をおなかいっぱい食べたい」という要望によって復活しました。岩国にお越しの際は、ぜひ味わってみてください。

定職を持たず、道楽を極めた父

嫁に行った10日間、学校帰りの千代が通った錦帯橋。山の上には岩国城が見える
幼少期の千代に強い影響を与えた人物といえば、父の俊次でしょう。千代によれば、父は「バルザックかドストエフスキーの小説にしか出て来ないような一種の奇人ないし狂人」で、「馬を何頭も飼って競馬に出し、博打もし、あらゆる道楽をし、放蕩を極めた」無頼者でした。一方、子供たちにはとても厳しく、スパルタ式の教育を施したそうです。幼かった千代にとっては、父に絶対服従するのが当たり前のことでした。千代は14歳のときに、父に命じられて従兄弟の藤村亮一のもとに嫁入りをしたこともありました。もっともこのとき、若すぎた2人の結婚はうまくいかず、千代は10日で実家へ戻ることになったのですが。いずれにしても、そんな父との関係性が、千代に「辛いことがあっても辛いと思わない強さを育んだ」ようです。
厳しかった父も1913(大正2)年、千代が16歳のときに死去。千代は涙を滝のように流したそうですが、「なんとなく嬉しかった」とも言っています。この頃、千代は文学の面白さに目覚めていたのですが、父からは雑誌や新聞を読むことを禁じられていたため、厠へ行くふりをして読んでいたそうです。父がいなくなったことをきっかけに、千代は小説などを貪るように読むことができるようになりました。自作の詩や散文を書いて、『女子文壇』などの雑誌に投稿するようになったのもこの頃からでした。
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父が通った大名小路の「半月庵」
千代の代表作『おはん』に登場する大名小路の料亭「半月庵」は、実在する料亭で(現在は料亭旅館として営業)、千代の父・俊次はここの「ひょうきんな遊び人」として常連だったそうです。家の中では、「時計の間」と呼ばれる家の内外をすべて見渡せる部屋に座り、いかにも気難しそうに、唇を固く結んでいる父の姿しか見たことがなかった千代には、父の「半月庵」での遊びぶりを知ったときの驚きはいかばかりだったでしょう。

小学校教員になるも、恋が火種に

同人誌『海鳥』を作った仲間と。前列右から2人目が千代(写真提供:宇野千代顕彰会)
1914(大正3)年、岩国高等女学校を17歳で卒業した千代は、川下村尋常高等小学校の代用教員になりました。仲間とともに同人誌『海鳥』を発行するようになったのもこの頃です。教師としての千代は、生徒たちを褒めることでやる気を引き出すなど、熱心に仕事にあたりました。教師になって初めての夏休み。実家に戻った千代は風呂へ入った後、リュウが脱衣所に残していた白粉を顔につけてみました。化粧を施した自分の姿にうっとりした千代は、学校が始まってからも毎日、化粧をして出かけるようになったといいます。これが千代の女性性への目覚めだったのかもしれません。
翌年、千代は勤務先の学校に新たに赴任してきた男性教員と熱病のような恋に落ちることになります。生徒にラブレターを届けさせるなど大胆な行動をとった千代と、その男性教員は田舎町の噂となり、千代は免職となります。失意の千代は、女学校時代の恩師の伝手を頼って京城(現在のソウル)へ出奔。その後も千代は生涯に何度も居を変え、引っ越しを繰り返していくのですが、これが千代の放浪人生の始まりとなりました。
京城では家政婦のような仕事をしながら、毎夜、男にラブレターを書いていた千代。しかし、男からは絶縁状を突きつけられてしまいます。気が動転した千代は、すぐさま帰国し、男の転任先だった山奥の小学校を訪ねます。しかし、男に冷たくあしらわれ、失恋を痛感。「心が離れてしまった恋人の後は追わない」という千代の恋愛観が育まれたのは、この時の経験を引きずっているからなのかもしれません。
上京し、文学者との交流が始まる

『おはん』の舞台にもなった臥龍橋(がりょうばし)遠景
19歳で京城から帰国した千代は、従兄弟の藤村忠(ふじむらただし)を頼って京都へ行き、そのまま同棲生活に入りました。忠は千代が14歳のときに嫁いだ従兄弟・亮一の弟。2人の出会いは、千代が『おはん』にも登場する臥龍橋のたもとへ、弟妹を連れて出かけた際、岩国城下町の鉄砲小路に住む伯母と、京都の三高(現在の京都大学)に在学中だった忠が来ていたことからでした。鉄砲小路の伯母とは、生母・トモの姉のことで、伯母は千代のことを相当気に入っていたようです。
1917(大正6)年、千代が20歳のとき、忠が東京帝国大学(現在の東京大学)に入学したのに伴い、2人で上京。帝大のある本郷に居を構えましたが、仕送りを断たれた2人の生活は貧しかったようです。千代は雑誌社での事務や、家庭教師などの職を転々としますが、18日間だけ本郷三丁目にあった燕楽軒(えんらくけん)というレストランでウエイトレスをしたことが、のちに作家となる運命を手繰り寄せることになりました。
燕楽軒の向かい側には大手出版社である中央公論社があり、名編集長として知られた瀧田樗陰(ちょいん)が、毎日、燕楽軒に客として訪れていました。瀧田がチップで置いていく五十銭銀貨は、千代の心を踊らせました。また当時、売り出し中の若手作家であった芥川龍之介、久米正雄、菊池寛、佐藤春夫、今東光らが瀧田に連れられて来店したので、文学に傾倒していた千代を刺激しました。芥川の短編『葱』のモデルは千代。今東光の弟・日出美は、千代を「見詰めずにはいられぬ美人」「本郷の女王(クイン)」であったと回想するなど、千代がいかに魅力的な女性として輝いていたかをうかがい知るエピソードも残されています。
藤村忠と結婚し、札幌へ

札幌時代、23〜4歳頃の千代(写真提供:世田谷文学館)
1919(大正8)年、千代は22歳のときに忠と結婚し、忠が北海道拓殖銀行に就職したことをきっかけに札幌へ移住することになります。札幌での千代は、妻としてかいがいしく家事をこなしたり、女学校で身につけた裁縫の技術を活かして仕立物に精を出していました。
平和な日々を過ごしていた千代でしたが、ふと思い立って短編『脂粉の顔』を書き上げると、懸賞小説を募集していた時事新報に応募。これが一等に当選し、賞金200円を得ました。気を良くした千代は、続いて『墓を発く』の原稿を書き上げ、今度は燕楽軒で馴染みになった中央公論社の瀧田のもとへ送ります。何ヵ月経っても返事のないことにいたたまれなくなった千代は、その採否を聞きに東京へと向かいました。瀧田に会った千代は、原稿が『中央公論』1922(大正11)年5月号に掲載されることを知らされ、原稿料として366円を受け取ります。大正末期の大卒サラリーマンの初任給が50~60円だったということを考えると、千代が小説を書いて得た金額は、当時相当な価値があったと思われます。千代は嬉しくなって、その日のうちに岩国の実家へと帰り、故郷に錦を飾ったのです。
尾崎士郎と恋に落ち、作家の道へ

尾崎士郎と暮らしていた頃(写真提供:世田谷文学館)
岩国で家族とのひとときを過ごした千代は、夫が待つ札幌へ帰ろうとしましたが、北海道行きの汽車に乗り換える前に、次の仕事の話をしようと東京で中央公論社に立ち寄りました。そこで千代は、時事新報社の懸賞小説で千代に次ぐ二等だった尾崎士郎と遭遇します。千代は尾崎が持っているおどけたような雰囲気に惹かれ、2人はたちまち恋に落ちます。そして、二度と札幌へ帰ることはありませんでした。
千代と尾崎は1923(大正12)年5月、東京の荏原郡(えばらぐん)馬込町に居を構えます。翌年には、藤村忠との協議離婚が成立し、尾崎と結婚。千代はこの頃から筆名を「宇野千代」とし、女流作家として文壇で注目を集める存在になっていくのでした。その一方で、家では主婦として、妻として、献身的に尾崎を支えます。1926(大正15)年には、2人は瀬戸内海が見渡せる岩国の新港でひとときを過ごすなど、幸せな日々を送りました。
名だたる文士が集う、馬込での生活

馬込時代。断髪に着物姿の千代(右)(写真提供:世田谷文学館)
馬込での暮らしは、社交的で友人の多い尾崎を慕い、川端康成、萩原朔太郎、広津和郎、牧野信一、三好達治、室生犀星といった名だたる文士たちが集まり、文士村のような趣きを作っていました。そんななかでも千代は目立つ存在で、当時はまだ大根畑ばかりだった馬込の田舎風景のなかを流行りの短い断髪にして、着物の上から黒びろうどの短いマントを羽織り闊歩していました。萩原朔太郎の妻や、川端康成の妻も千代を真似して髪を切り、皆でダンスを踊るなど、モダンガールよろしく当時の流行の最先端を突き進んでいました。
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千代が好んだ岩国の郷土料理
尾崎士郎も好んだ岩国寿司
食べることが大好きだった千代ですが、外食はあまりせず、自分で作って家で食べることが多かったようです。来客があったときには、お国自慢をしながら岩国の郷土料理「岩国寿司」と「大平」を作り、よくもてなしました。岩国寿司とは、千代のレシピによると岩国産のれんこんに瀬戸内の鯛、サニーレタス、干ししいたけ、錦糸卵、でんぶなどを散りばめた豪華な押し寿司で、夫の尾崎も「酒の肴にこんな好いものはない」と絶賛していたそうです。大平は、鶏肉と野菜がたくさん入った汁物で、岩国寿司と相性がよく、大勢をおもてなしする時には欠かせないレパートリーの1つでした。

朝食に欠かさず食べた「うまもん」
1993(平成5)年に刊行された『私の長生き料理』という料理本では、故郷・岩国の漬物「うまもん」を「とびきり旨い漬物 岩国の土が生んだよい材料と伝統を守り続けた手間がかかった逸品」と評し、朝食に欠かさなかったといわれています。

尾崎の嫉妬を生んだ!? 梶井基次郎との出会い

湯ヶ島での仲間と。右から2番目が千代(写真提供:世田谷文学館)
1927(昭和2)年、30歳の年に川端康成から誘われて伊豆の湯ヶ島を訪れ、千代は梶井基次郎(かじいもとじろう)と出会いました。梶井は一見無骨な男でしたが、時折見せる柔和な仕草に千代は好感を抱きます。また、当時の梶井は、同人雑誌などに発表した作品が高く評価されていて、千代はその才能にも惹かれるところがあったようです。

尾崎と別れた頃の千代(写真提供:世田谷文学館)
やがて梶井は、毎晩のように千代の宿を訪れるようになり、夜が更けるのも忘れて話し込んだこともあったとか。そんな梶井との関係は噂となり、尾崎の方も心は千代から離れ、馬込の自宅に寄り付かなくなっていきます。1930(昭和5)年8月、千代と尾崎は正式に離婚をすることになりましたが、後年、千代は「一番好きだったのは尾崎です」と堂々と語っています。尾崎も「作家生活に基礎的な土台をつくりあげてくれ、文学眼を開かせてくれたのは宇野千代女史であった」と言い、離婚はしても2人の間には、互いに敬慕の念があったことが伺えます。
東郷青児と出会い、その日から同棲生活に

東郷青児と一緒に撮った写真(写真提供:世田谷文学館)
1929(昭和4)年から1930(昭和5)年にかけて、尾崎士郎と別居中だった千代は、報知新聞に小説『罌粟(けし)はなぜ紅い』を連載しています。このタイトルは、千代から相談を受けた梶井基次郎がつけたそうです。小説のなかでガス自殺をする男女の情景を描くために、千代は当時、愛人と情死未遂事件を起こし、騒がれていたフランス帰りの画家・東郷青児に取材を申し込みました。そしてなんと(!)2人は出会ったその日から同棲生活を始めることになるのです。

東郷の趣味に合わせて洋装が多くなった千代(写真提供:世田谷文学館)
1931(昭和6)年、千代と東郷は世田谷の畑の中に白いコルビジェ風の洋館を建て、新しい生活を始めました。建築資金の借金返済のため、東郷は絵を描き、千代は東郷の絵を売るために奔走します。東郷との暮らしは、千代の文学観にも影響を与えました。東郷の絵を身近で見ながら、西欧的な抽象世界に惹かれるようになっていったのでした。
画像1:写真右から東郷、千代。昭和5〜6年頃(写真提供:宇野千代顕彰会)
画像2:東郷の絵を売る旅にて。場所は三原と思われる(写真提供:宇野千代顕彰会)
2人の合作『大人の絵本』は、千代が書いた幻想的な短編小説に、東郷の描いた淡く繊細な色調の挿絵が入った芸術的な作品。1933(昭和8)年から連載が始まった『色ざんげ』は、パリ帰りの若い画家の情死事件を、その男の独白という形で綴った長編作品で、聞き書きという独自の小説スタイルをとって、男女の心情をみずみずしく描いた名作です。こうして千代は売れっ子作家として多忙な日々を送り、仕事のために別の部屋を借りるようになると、2人の仲は次第に離れていくようになりました。東郷は情死未遂事件の相手と再びよりを戻し、完全別居状態となったのです。
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文士の大賭博事件
千代が終生、心から楽しんでいた趣味は麻雀です。馬込時代に友人の広津和郎から手ほどきを受けた千代は、麻雀にのめり込んでいました。そして、東郷青児と暮らした頃には、麻雀賭博に参加した容疑で東郷とともに検挙されてしまうのでした。刑事が家に来た時、東郷は寝室に千代を匿い、1人で連行されていきましたが、後日千代も出頭。千代が「その時の勝負では、私は負けました」と刑事に伝えると、刑事は「どなたも皆、負けたとおっしゃる。負けたからといって、罪が軽くなることはないのですが」と言って、笑ったという話を『生きて行く私』に書いています。
画像:千代が愛用した麻雀セット(写真提供:世田谷文学館)

ファッション誌『スタイル』の発行と、北原武夫との出会い

宇野千代旧蔵の『スタイル』創刊号表紙(写真提供:世田谷文学館)
東郷と別れた千代は、日本初の女性ファッション誌『スタイル』を刊行しました。1936(昭和11)年6月の創刊号は、パリの画壇で絶賛されていた藤田嗣治(つぐはる)が表紙を描くなど、東郷から吸収した洗練されたパリのおしゃれ感覚が遺憾なく発揮されています。
この頃、華々しい活躍をする千代のもとに、都新聞(現在の東京新聞)の記者をしていた北原武夫が取材に訪れました。北原の端正な顔立ちと文学的素質に惹かれた千代は、毎日のように都新聞社を訪れ、2人は急接近。やがて『スタイル』の編集にも北原が参画するようになり、売上を順調に伸ばしていきました。また、北原の文筆活動の場を作るために月刊文芸誌『文體(ぶんたい)』を創刊。同人として三好達治、井伏鱒二らも名を連ねました。

北原武夫との結婚式の写真(写真提供:世田谷文学館)
1939(昭和14)年4月1日、順調に交際を重ねていた千代と北原は、帝国ホテルで挙式をあげることになります。千代42歳、北原32歳。4月1日は2人が初めて出会った日であることから、これを記念して結婚式の日取りを決めたのですが、世間では「エイプリルフールじゃないのか?」と噂されたそうです。
太平洋戦争下の千代と北原

千代が愛蔵した天狗屋久吉作の人形(写真提供:世田谷文学館)
結婚した2人は、小石川に転居を果たしました。この頃、千代は北原の影響によってフランスの心理小説に傾倒していきます。
しかし、1941(昭和16)年には太平洋戦争が勃発。北原は陸軍報道員として徴用され、翌年ジャワ島に派遣されました。戦時中、『スタイル』誌は休刊。千代は戦地へ赴く北原への思いを綴った『妻の手紙』を執筆し、世の女性の共感を集めました。また、北原の出征中には、徳島に渡って書いた『人形師天狗屋久吉』『日露の戦聞書』で、独自の聞き書き体を確立するなど、文学的に開眼し、新たな宇野千代ワールドを展開していくのでした。
戦後、『スタイル』誌が復刊を果たす

スタイリッシュな装いで編集者として活躍する千代(写真提供:世田谷文学館)
戦後の1946(昭和21)年、北原を社長、千代を副社長としてスタイル社が再建されました。物資さえ不足する世の中だったにも関わらず、復刊された雑誌『スタイル』は爆発的な売れ行きとなったそうです。
文芸誌『文體』も青山二郎が表紙を手掛け、季刊誌として復刊。小林秀雄の『ゴッホの手紙』などを掲載しています。この頃の千代は、小林秀雄と青山二郎を慕い、身近な関係性を築いていました。

『きもの読本』で自らモデルを務める千代(写真提供:世田谷文学館)
1949(昭和24)年には、「宇野千代きもの研究所」を設立し、『スタイル』誌の臨時増刊として着物専門誌『きもの読本』を刊行します。『きもの読本』では、千代がデザインした着物を自らが着て、モデルを務めました。
1950(昭和25)年、『スタイル』誌の好調を受けて莫大な金を手にした千代は、銀座・木挽町に家を新築します。10代までの多感な時を過ごした故郷・岩国の風景が登場する名作『おはん』を書き始めたのもこの頃です。1957(昭和32)年に中央公論社から出版された『おはん』は、第5回野間文芸賞を受賞しました。
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戦後、日本の女性作家として初めてパリへ
1951(昭和26)年、千代は随筆家の宮田文子に誘われてパリへ旅行に出かけました。これは戦後、日本の女性作家としては初めてのこと。宇野千代きもの研究所を設立して間もない時期でもあったため、着物姿でパリの街を歩いた千代には、パリっ子たちの熱い視線が注がれました。恋と冒険に生きた宮田文子と千代。2人はよほど馬があったのでしょう。2ヵ月ほどの旅を一緒に過ごし、フランスの哲学者アランの家を訪ねて、本人から著書にサインを入れてもらうなど、パリで貴重な経験を得たのでした。
スタイル社に国税庁の査察が入り、倒産

新橋界隈を歩く千代。昭和36年頃(写真提供:世田谷文学館)
1952(昭和27)年になると、大手出版社から『スタイル』に似た雑誌が発行され、『スタイル』の売上は次第に落ち込んでいきました。さらに、スタイル社には国税庁の査察が入り、脱税で摘発されてしまいます。振り出した手形は暴力団の手に渡り、返済できなければ殺すと脅されるような「奈落の底」を経験。千代は当時、青山に住んでいた妹を頼り2階で着物を作り、北原は離れで小説を書くなど、2人はひたすら借金を返す日々を過ごします。
1957(昭和32)年5月、スタイル社は会社更生法の適用を受けましたが、2年後に振り出した手形が不渡りとなり完全に倒産。負債は8千数百万円。銀座の土地も、別荘も、木挽町の豪邸も全て人手に渡りました。千代は着物を売り、北原は文筆収入で返済に奔走。1964(昭和39)年、借金の全額返済を機に千代と北原は離婚することになりました。
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借金苦のなか、きものショーに出品するためアメリカへ
借金の返済に追われていた1957(昭和32)年、千代はアメリカのシアトル博覧会で自身がデザインしたきものショーを開催するために渡米。シアトルを皮切りに、ロサンゼルス、シカゴ、ニューヨークと約40日間に渡ってきものショーを展開し、各地で喝采を浴びました。この頃の千代は、着物デザイナーとしての活動が本格化した時期で、約10年間書き続けてきた『おはん』も完結し、野間文芸賞、女流文学者賞を受賞するなど、私生活の苦しさとは裏腹に、脂ののった創作活動を続けました。
「淡墨の桜」を蘇生させるため、全力で駆け出す

岐阜県本巣市の淡墨の桜(写真提供:宇野千代顕彰会)
北原との離婚が成立した年、千代が「一番好きだった人」である尾崎士郎が病死。悲しみを振り払うかのように、千代は小説や着物の仕事に専念します。1966(昭和41)年、北原との別れを描いた『刺す』を刊行。1967(昭和42)年には、着物の仕事をまとめる株式会社宇野千代を設立し、同年、静かな仕事場環境を求めて、那須に土地を買い、家を建てました。
1970(昭和45)年、小林秀雄から岐阜県根尾村(現在の本巣市)に「淡墨の桜」という樹齢1200年の巨大な桜があるが、今行けばまだ花が見られるかもしれないと聞き、73歳の千代はすぐさま根尾村に向かいます。しかし、そこにあったのは1959(昭和34)年の伊勢湾台風で被害を受けた無惨な老木の姿。その痛々しさに心を打たれた千代は、この枯死寸前の桜をなんとかできないかと岐阜県知事に訴え、自ら募金活動などを行いました。その甲斐あって「淡墨の桜」は見事に蘇生。この話を小説に仕立てた『淡墨の桜』が1975(昭和50)年に刊行されました。
自分を夢中にさせることに出会ったらすぐに駆け出していく千代の性質は、幼い頃から70代になっても決して衰えることはありませんでした。
100万部超えのベストセラーエッセイ『生きて行く私』

『生きて行く私』の手書き原稿(写真提供:世田谷文学館)
85歳になった千代は、波乱に満ちた自らの人生を振り返る自伝的エッセイを1982(昭和57)年2月から1983(昭和58)年7月まで『毎日新聞日曜くらぶ』に連載しています。岩国の生家や両親の記憶、弟妹との関わり、恋愛遍歴など、自由奔放に生きた自らの人生を明るく、天衣無縫な切り口で描きました。このエッセイは連載終了後、毎日新聞社から『生きて行く私』上下2巻にまとめられ、100万部を超えるベストセラーになりました。
『生きて行く私』には、千代が少女時代を過ごした岩国でのエピソードもふんだんに書かれているので、千代の足跡を訪ねてみたいという方は一読するのがおすすめです。なお、『生きて行く私』の連載が始まった1982(昭和57)年には、第30回菊池寛賞を受賞しています。
岩国名誉市民となり、文化功労者としても表彰

晩年も書斎に向かっていた千代(写真提供:世田谷文学館)
90代になっても、「書くことが楽しくてたまらない、書かずにはいられない」と語り、精力的に活動していた千代。1990(平成2)年9月には、故郷・岩国の名誉市民に選定され、同年10月には文化功労者として表彰されました。
その後、1996(平成8)年6月10日、千代は急性肺炎のため東京虎の門病院で98年の生涯を閉じます。

教蓮寺にある宇野千代墓所
最後の著作は、1995(平成7)年12月に海竜社から刊行された『私何だか死なないような気がするんですよ』。晩年に残したエッセイ作品の多くには、どんなに辛いことがあっても、不幸だと考えずに前向きに、健気に生きた千代の人生観が詰まっていて、「元気が出る」「幸せのヒントになる」というファンも多い作品群になっています。
千代の作品に影響を与えた、岩国の町並みを歩こう

桜の季節の錦帯橋
「桜も日本一、錦帯橋も日本一、こんな日本一の故郷を持っているような幸せ者が、この日本に二人とあるだろうか。私は、とても故郷に感謝している。人間をつくるのは故郷なのです」と語っていた千代。この言葉からも故郷の岩国は、作家・宇野千代の形成に大きな影響を与えていることがわかるのではないでしょうか。

紅葉に染まる錦帯橋
1673(延宝元)年に、旧岩国藩主・吉川広嘉によって原型が造られたという錦帯橋は、幼少期の千代が毎日のように目にしていた故郷の自慢の種。千代が1974(昭和49)年に建て直すよりも多くの費用をかけて修復したという生家には、千代の発案によって庭に100本もの紅葉が植えられ、仏頭を配した美しい癒やしの空間が広がっています。
その他にも、千代が通った小学校(現在の岩国学校教育資料館)、伯母の家があった鉄砲小路、千代と父母の墓所である教蓮寺など、『生きて行く私』に描かれている岩国時代の千代の足跡を訪ねるのもよし。代表作『おはん』に登場する半月庵や花屋、おはんと加納屋が再会する臥龍橋、二人の新居の近くにあったお大師さま、息子の悟が命を落とした龍江淵。生家の近くにある『水西書院の娘』の舞台・水西書院を訪ねて、千代が描いた作品の世界観にどっぷり浸ってみるのもよし。岩国には宇野千代作品に登場する町並みや風景が今も多く残されているので、興味のある方はぜひお越しください。
【岩国へのアクセス】
| 飛行機をご利用の場合 | ・羽田空港から岩国錦帯橋空港まで約95分 →岩国錦帯橋空港から岩国駅までバスで約10分 |
| 新幹線をご利用の場合 | ・東京駅から広島駅まで約4時間 ・新大阪駅から広島駅まで約80分 →広島駅から新岩国駅まで約16分 |
読めば元気になる! 宇野千代の「幸福の言葉」メッセージ・ボード
岩国市内各所には、宇野千代作品に遺された幸せになるための名言を記したメッセージ・ボードが設置されています。どんな言葉が書いてあるかは、行ってみてからのお楽しみ。岩国城下町を散策しながら、彼女の作品世界にふれてみませんか。
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日本3名橋「錦帯橋」って何がすごい?人気スポットや体験プラン、映え写真の撮り方まで徹底解説
清流・錦川に架かる、5連のアーチが美しい木造橋「錦帯橋」。山口県有数の観光スポットとして多くの観光客で賑わいます。
複雑に組み合わさった組木の技法や四季折々の錦帯橋は写真映えもばっちり!周辺観光も盛り沢山です。
錦帯橋を存分に楽しむポイントをご紹介します。

「お散歩」気分で、千代が愛した岩国のまちへ
宇野千代ドラマ観光推進実行委員会公式ロゴマーク
2026年秋に放送予

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(東京都)「世田谷文学館前期コレクション展」のお知らせ
東京都にある「世田谷文学館」で、期間限定のコレクション展を実施しています。
あわせて足を運んでみてはいかがでしょうか。
没後30年 宇野千代展 ―恋と創作の若き日々―
2026年4月18日(土)~9月6日(日)












