吉田松陰は何をした人? 明治維新のリーダーを育てた生涯と名言・功績
松下村塾を主宰し、明治維新のリーダーとなる人材を数多く育て上げた幕末の指導者・吉田松陰(よしだしょういん)。直接教えを受けた志士たちのみならず、その影響は現代にまで及び、今も多くの吉田松陰関連書籍が出版されてベストセラーになっています。時代を超えて多くの人々の心を打つ、吉田松陰の魅力はどんなところにあるのか。松陰の生涯を紐解きながら、その名言と一緒にご紹介します。
※本稿は一定の文献等をもとに制作していますが、歴史や人物の評価については様々な解釈があるため、認識が異なる場合にはご容赦ください。
画像:吉田松陰肖像画(山口県文書館所蔵)

動乱の時代に生を受けた吉田松陰

嘉永6年にペリーが久里浜に上陸した様子を描いた『亜墨利加人栗浜上陸之図』(東京都立中央図書館所蔵)
吉田松陰が生まれた江戸時代後期の天保年間(1830〜1844)年は、動乱の時代の幕開けでした。まず、天保3(1832)年から始まった全国的な凶作による天保の大飢饉で、国内各地で一揆や打ち壊しが多発していました。
さらに、天保11(1840)年に起きたアヘン戦争では、アジアの大国である隣国の清がイギリスに敗れ、香港は割譲、貿易の主権もイギリスに奪われてしまいました。このニュースは、鎖国によって泰平を維持してきた幕府に強い衝撃を与えます。欧米列強の脅威が迫るなか、嘉永6(1853)年にはアメリカ東インド艦隊司令長官・ペリー提督率いる黒船4隻が浦賀に来航。大統領の国書を持って開国を求めてきました。幕府はペリーの強硬な姿勢に押され、安政元(1854)年に日米和親条約を結び、下田と函館の2港を開港します。
天保の大飢饉による国内の混乱と、武力を背景に外国から開国を迫られた状況に幕府の権威は失墜。この危機を乗り越えるため、幕府は朝廷や諸大名と連携し、挙国一致体制を敷こうとしましたが、これが幕府に問題を解決する能力がないことを示してしまい、皆が政治や国のあり方について自由に発言する機運が醸成されていきました。
学問好き一家で育てられ、早くから秀才として頭角を現す

萩市内を一望する高台にある吉田松陰誕生地
時代の転換期にあった天保元(1830)年8月4日、吉田松陰は長州藩萩の松本村(現在の山口県萩市椿東)の下級武士・杉家の次男として生まれました。通称は寅次郎(とらじろう)。杉家の家計は厳しかったため、父の百合之助(ゆりのすけ)は半士半農の生活を送っていましたが、学問が好きで、幼い松陰と兄の梅太郎(うめたろう、のちの民治(たみじ))を連れ、田畑で儒学や歴史の書物を子どもたちに暗唱させていたそうです。

玉木文之進による教育の様子『吉田松陰絵伝、第二、幼年素読を受る所』(萩博物館所蔵)
5歳になった頃、松陰は藩の兵学師範であった吉田家に養子に出されますが、義父が亡くなったため、叔父の玉木文之進(たまきぶんのしん)が松陰の教育にあたりました。玉木は松陰を立派な兵学師範にするため、徹底したスパルタ教育を施します。その苛烈さは想像を絶するもので、ある日、本を読んでいた松陰の顔に蚊が飛んできたため、松陰がそれを払いのけようとしたところ、玉木は「お前は今、天下国家に役立てるための学問をやっているのに、蚊が止まって痒いという私事に気を取られた」と言って、松陰に激しい折檻を加えたというエピソードが残されています。

藩主・毛利慶親公の前で御進講『吉田松陰絵伝、第四、御前講』(萩博物館所蔵)
玉木の熱心な指導の甲斐もあり、松陰は11歳で藩主・毛利慶親(よしちか、のちの敬親(たかちか))の前で山鹿流兵学書を御進講するなど秀才ぶりを発揮します。御進講は他の成績優秀な子どもも行う形式的なものなので、それほど特別なことではなかったかもしれません。しかし、松陰の講義を聞いた藩主の慶親は感動し、その後も度々松陰を御前に召して講義をさせたばかりか、数年後には松陰から免許皆伝を受けて、松陰の兵学門人になりました。その後、19歳になった松陰は、山鹿流兵学師範として独立します。これは今でいう防衛大学の教授になったようなもの。10代の若者が藩のエリートを育てる藩校・明倫館(めいりんかん)で堂々と教鞭をふるう姿は、どんなにか頼もしかったことでしょう。
- 吉田松陰誕生地
- 萩市椿東にある吉田松陰が生まれた場所

- もっと見る
- 玉木文之進旧宅
- スパルタ教育を施した叔父・玉木文之進の家

- もっと見る
- 旧萩藩校明倫館
- 長州藩の藩校で、松陰もここで教鞭をとった

- もっと見る
Column
松陰先生の言葉
夫れ志の在る所、気も亦従ふ。志気の在る所、遠くして至るべからざるなく、難くして為すべからざるものなし。 『未忍焚稿』弘化3年
16歳の吉田松陰が医学修行に旅立つ友人に向けて送ったはなむけ言葉で、「志さえあれば、やる気はついてくる。志ややる気があれば、遠くにある目標でも叶えることができるはずだ」という意味。この頃からすでに高い志を持つことの大切さを訴えているところに、松陰の非凡さが感じられます。
アヘン戦争に危機感を抱き、行動の人となる

脱藩して東北遊歴に出る『吉田松陰先生絵伝、第七、江戸脱邸』(萩博物館所蔵)
10代の頃の松陰は、清がアヘン戦争でイギリスに敗れて不平等条約を結ばされ、国家存立の危機に陥っていたことを知り、日本も同じ目に合うのではないかと危機感をつのらせていました。そして20歳になると長州藩領の北浦へ、日本海沿岸の防備を視察する旅に出て、これをきっかけに行動の人となります。視察の旅は、南は九州熊本から、北は本州の最北端・竜飛岬まで、その移動距離は13,000kmにも及びました。
22歳で江戸に遊学した際には、九州遊学時に親しくなった肥後熊本藩士の宮部鼎蔵(みやべていぞう)と東北防御の視察を計画。しかし、出発日になっても藩から「過書(かしょ)」と呼ばれる通行手形が発行されなかったため、松陰は約束を違えるのは恥と考え、過書を持たずに出発してしまいました。当時の決まりでは、過書を得ずに旅に出ることは脱藩に値するため、東北視察を終えた松陰は藩邸に自首します。結果、萩に送り返されることになりましたが、初めて藩の枠を超えて日本各地の国防や農政、政治、民情などを実地で見聞したことが、松陰の視野を広げることにつながったようです。
Column
松陰先生の言葉
心はもと活きたり、活きたるものには必ず機あり、機なるものは触に従ひて発し、感に遭ひて動く。 『西遊日記』嘉永3年
初めて長州藩の外に出て、九州を旅した際の日記に記した言葉で、「生き生きとした心を持つ人は、必ずそれを活かす機会がある。それは何かに触発されて生じ、感動することによって動き始める」という意味。この日記には、松陰が旅先で新しいものを見て、心を動かされた様子が随所に書き残されています。
Column
甘味の誘惑には勝てない吉田松陰!?
学問にストイックで、清貧を好んだ印象がある吉田松陰。実際、嘉永4(1851)年に江戸へ遊学した際、つけていた小遣い帳には、書物を買うために食費を切り詰め、米と梅干し、味噌汁だけの質素な食生活を送っていた様子が記されています。しかし、大福だけは月に6回も食べた記録があり、「誘惑に勝てず、買食いをしてしまった。この記録を見ると恥ずかしい」と書き残しています。ちなみに山口県の名物・ふぐに関しては、「忠義で死ぬのは良いが、ふぐで死ぬのは恥」という考えから口にすることはなかったようです。松陰門下の高杉晋作(たかすぎしんさく)や山縣有朋(やまがたありとも)もふぐを食べなかったと伝わっています。

黒船来航に際し、命がけで密航を試みる

吉田松陰誕生地に建つ吉田松陰(左)と金子重之輔の像
脱藩の罪で萩に送り返された松陰ですが、藩主の毛利慶親は松陰を国の宝と考えていたので、松陰に10年間の諸国遊学を許しました。そこで松陰は再び江戸に向かいますが、待ち受けていたのは、嘉永6(1853)年に国内を揺るがした大事件「黒船来航」でした。この時、浦賀に来航したペリー艦隊を目の当たりにした松陰は、外国に出てその高い文明を学ばなければ日本を守ることはできないと考え、密航を企てます。
翌嘉永7(1854)年、日米和親条約締結のため再び来航したペリーの黒船に、弟子の金子重之輔(かねこしげのすけ)とともに小舟で乗り込み、アメリカへの渡航を求めたのです。しかし、その願いは拒否され、松陰と金子は下田奉行所に出頭。当時、海外渡航は禁止されていたため、江戸の伝馬町牢に投獄され、死罪は免れたものの、萩へ送還されて野山獄に入れられました。
安政元(1854)年4月15日、下田から江戸に移送される松陰が、赤穂浪士たちが眠る高輪・泉岳寺の前を通った際に詠んだ有名な句があります。「かくすればかくなるものとしりながらやむにやまれぬ大和魂」。密航が見つかれば重い罪に問われることは承知のうえ。それでも命がけで日本の将来のためになることをしたいと考え、行動した松陰の志の本気度には、心打たれるものがあるのではないでしょうか。
Column
松陰先生の言葉
我等両人、世界見物いたしたく候あいだ。その御船へ内密に乗り込ませくれられよ。尤も、異国へ渡ることは日本の大禁につき、このことを日本の役人たちへ御話なされ候ては甚だ当惑つかまつり候。 『アメリカ船乗船の嘆願書』安政元年
アメリカ密航に際し、吉田松陰がペリー艦隊の船員に手渡した嘆願書。「我々は、世界を見たいと考えています。どうかそちらの船に乗せてください。海外渡航は日本では禁じられていますので、あなたたちが日本の役人に連絡したら大変なことになってしまいます」と書かれています。この手紙は今もアメリカ・イェール大学図書館に保存されています。
獄舎の雰囲気を一変させた獄中教育

獄中教育が行われた野山獄跡
安政元(1854)年、野山獄につながれた吉田松陰は、学問に対する情熱がますます盛んになっていきます。1年2カ月に及んだ獄中生活では、なんと600冊以上もの本を読んだほか、他の囚人を相手に『孟子』の講義を始めました。そんななか、書道や俳句が上手い囚人がいることに気づいた松陰は、「私にも教えてくれませんか?」と言って、手ほどきを請います。互いに得意なことを教え合う勉強会を続けるうち、獄舎の雰囲気は一変し、囚人たちは互いに切磋琢磨して過ごすようになっていきました。このとき培われた教育観が、のちの松下村塾での教育の原点になったといわれています。
監獄に入れられ、自由を奪われても学び続ける。囚人の中にも良いところを見つけ、教えを請い、ともに学ぶ。学問に対する熱い思いと、その姿勢の一貫性は、現代を生きる私たちも見習う必要がありそうです。
- 野山獄・岩倉獄跡
- 松陰が獄中教育を行った野山獄の跡

- もっと見る
Column
松陰先生の言葉
学問の大禁忌は作輟なり。 『講孟余話』安政2年
野山獄での獄中講義録である『講孟余話』に書かれた一節で、「学問において、やったりやらなかったりは、厳禁である」の意。松陰の学問に対する志の高さが伺えます。
松下村塾で志ある若者を育てる

松陰が謹慎生活を送った幽囚室
安政2(1855)年、野山獄から出獄し、実家の杉家で謹慎生活を送ることになった吉田松陰のもとには、学ぶことに飢えた近所の若者たちが集まってきました。こうして始まったのが松下村塾です。「松下村塾」とは、もともと叔父の玉木文之進が開いていた塾の名で、松陰がそれを引き継ぐ形となりました。

幕末のリーダーを次々と輩出した松下村塾
松陰はここで塾生たち一人ひとりと向き合い、良いところを褒めて、個性を伸ばす教育を行ったとされています。また、あなたたちも国を担う人間の一人だと励まし、そのうえで「どう生きるのか」「何を志すのか」と熱心に語りかけることで、塾生たちが自ら考え、仲間と議論し、行動する主体性を育んでいきました。その結果、松下村塾からは久坂玄瑞(くさかげんずい)、高杉晋作(たかすぎしんさく)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、山縣有朋(やまがたありとも)といった、幕末から明治にかけての時代の変革期をリードしていく人材を数多く輩出していきました。
現代においても一人ひとりの個性を見つけて伸ばすのが、教育の理想像として掲げられていますが、実践するのは容易いことではありません。今から170年以上も前の萩の片田舎の私塾で行われていた教育スタイルが、家庭、学校、会社など、現代のあらゆる組織において求められる教育のあり方を体現していたというのは、驚くべきことではないでしょうか。ここに松陰が今も理想のメンターとして、根強い人気を持つ理由があると考えられます。
Column
松陰先生の言葉
余寧ろ人を信じるに失するとも、誓って人を疑うに失することなからんことを欲す。 『講孟余話』安政2年
「私は人を信じることによって失敗しても、決して人を疑って失敗するようなことがないようにしたい」という意味で、自分にも、他人にも真正面からぶつかっていく、吉田松陰の実直な人柄がこの言葉に表れています。
至誠にして動かざるものは、未だこれあらざるなり

江戸へ送られる松陰が詠んだ句碑が残る涙松跡
安政5(1858)年、幕府が日米修好通商条約を締結したことをきっかけに、松陰は激しく幕府を非難し、老中暗殺など過激な計画を企てます。この行動を危険視した長州藩は、松陰を再び野山獄に投獄。その後、江戸に送られた松陰は、幕府の評定所から取り調べを受けましたが、その時点で幕府は老中暗殺計画については把握しておらず、大した罪に問われることはありませんでした。しかし、自分の信念を曲げたくなかった松陰は、評定所でペリー来航以来の幕政についての批判を始め、この件について老中を説得したいと熱く語りかけたのです。

評定所で死罪宣告を受ける『吉田松陰先生絵伝、第十二、江戸白州』(萩博物館所蔵)
「至誠にして動かざるものは、未だこれあらざるなり」(精一杯の誠意を持って相手に接すれば、それで心を動かされない人はいない)という孟子の言葉を信じ、最後まで幕府の政(まつりごと)を動かそうとした松陰でしたが、幕府からは公儀を憚らぬ不敬者とされ、処刑されることが決定。処刑の前日、松陰は塾生たちに向けた遺書『留魂録(りゅうこんろく)』を書き上げ、自らの志を塾生たちに託しました。松陰の死から9年。その志は多くの塾生たちの心を動かし、幕府を倒して新しい世の中を作ろうという原動力になったのです。
松陰は自らの理想を実現するためには過激な一面を見せるなど、現代ではむしろ危険な扇動者として批判されざる得ない側面も持ち合わせています。しかし、失敗を繰り返しながらも、自分の信じる道をひたすら突き進もうとする純粋さには、心を動かされる人も多いのではないでしょうか。そんな完璧ではないリーダー像が、今も多くの人々の心を打つ松陰の魅力の一つなのかもしれません。
- 涙松跡/涙松遺跡(萩往還)
- 松陰が死への旅路を意識して詠んだ句碑が残る

- もっと見る
- 吉田松陰東送の碑
- 江戸へ送られる松陰が休憩を取った場所

- もっと見る
- 吉田松陰と寺嶋忠三郎訣別の地
- 松陰と弟子の寺嶋忠三郎が最期の別れを惜しんだ場所

- もっと見る
- 吉田松陰防長路惜別の地
- 松陰が長州藩領との別れを惜しんで詠んだ歌碑が残る

- もっと見る
Column
松陰先生の言葉
人は狂頑と譏り、郷党衆く容れず、身は家國に許し、死生 吾久しく斉うせり。 『肖像画への自賛』安政6年
吉田松陰が自身の肖像画に自ら書き入れた言葉で、「世の中の人は私を頑固者と非難して、受け入れてくれないが、我が命は国家に捧げている。死ぬも生きるも忠誠を尽くす心に変わりはない。」という意味。国を思う松陰の志の高さが表れています。
Column
松陰神社に現存する吉田松陰直筆の『留魂録』
吉田松陰は処刑される前日、江戸の伝馬町牢で塾生たちに向けた遺書『留魂録』を書き上げました。このとき松陰は同じものを2通書いており、1通は松陰の処刑後、門下生が受け取り、もう1通は牢で出会った囚人・沼崎吉五郎(ぬまざききちごろう)に託されました。門下生のもとに渡った『留魂録』は萩に届けられ、門下生たちの間で書写されましたが、原本はいつしか所在不明に。囚人の沼崎は伝馬町牢から島流しになりましたが、その間、託された『留魂録』を大切に持ち続け、釈放後、松陰門下生であった野村靖(のむらやすし)に手渡しました。これが今も松陰神社に現存する吉田松陰直筆の『留魂録』の原本です。
画像:松陰直筆の『留魂録』(松陰神社所蔵)

吉田松陰の生き方が、時代を超えて人々の心に響く理由

道の駅 萩往還に佇む松下村塾門下生の銅像。左から山縣有朋、木戸孝允、伊藤博文、天野清三郎、野村和作
吉田松陰はその生涯において、命がけで自らの志を貫き、どんな状況に置かれても学ぶことを止めず、自分のことを慕ってきた人たちの個性を見つけ、伸ばし、自らも失敗を繰り返しながら、信じる道を突き進んでいきました。松陰の生き方や、彼が遺した言葉は、「何のために学ぶのか」「社会に対して何ができるのか」「どこまで本気で生きるのか」という、時代を超越した人間の根源的な問いと向き合う力を与えてくれ、仕事や教育、子育てなど、あらゆる場面でブレない軸を求める人々の心に響き続けています。
萩市では、松陰が残した言葉を大切にする教育が地域に根づいており、萩藩校明倫館の跡地に建つ萩市立明倫小学校では、昭和56(1981)年から児童たちが毎朝みんなで松陰の遺文から選ばれた一節を声に出して読む時間が設けられています。言葉は各学年で異なり、また学期ごとに変わるため、ここに通う小学生は1年で3つ、6年間で18の言葉を朗唱することになっています。ちなみに、萩市では吉田松陰と呼び捨てにせず、市民は敬意を込めてみな「松陰先生」と呼んでいます。吉田松陰が残した志をもっと身近に感じてみたい方は、松陰の足跡について知ることができる史跡や、偉業を顕彰する施設が数多く残されている山口県萩市を訪ねてみてはいかがでしょう。
- 吉田松陰歴史館
- 松陰神社境内にある、吉田松陰の一生をわかりやすく紹介する施設

- もっと見る
- 松陰神社宝物殿「至誠館」
- 松陰の遺書『留魂録』ほか、著述や遺品などを展示

- もっと見る
- 松陰記念館
- 萩往還公園にあり、松陰の生き方や萩の歴史を知ることができる

- もっと見る
Column
松陰神社の御神体は、なぜ硯なのか?
吉田松陰を祀る松陰神社の御神体は、松陰が終生愛用した「赤間硯(あかますずり)」です。赤間硯は山口県の伝統工芸品で、この硯は松陰が20歳の頃、赤間関に出かけた際に購入したものと伝えられています。松陰は処刑される7日前、父、叔父、兄に宛てた手紙で、生涯に渡り自らの著作や手紙の執筆を支えてくれたこの硯を「功臣」と称えました。処刑後、硯は手紙とともに実家の杉家に送られ、兄の梅太郎が大切に保管していましたが、松陰神社の前身となる祠を建てた際に手紙ともに祀られ、現在に至っています。
画像:赤間硯を買う『吉田松陰先生絵伝、第五、硯を買ふ所』(萩博物館所蔵)

吉田松陰をより深く知るためのスポットをご紹介
吉田松陰を祀る松陰神社の境内および周辺には、松陰の生涯や思想、功績について、より深く知ることができる史跡や資料館があります。これらを巡りながら、あなたも松陰の「志」に触れてみませんか。
- 一覧を見る
- 地図を見る
- 松陰神社宝物殿「至誠館」

- https://yamaguchi-tourism.jp/spot/detail_16464.html
- 学びの道(吉田松陰先生語録)

- https://showin-jinja.or.jp/showin-street/













