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旦の登り窯

ノスタルジーに浸る窯跡

【全体概要】日本舎密(せいみ)製造株式会社(現:日産化学工業)の製造する硫酸などを運ぶための容器を、明治26年から旦の製陶所で生産していました。旦の登り窯は、その当時の窯跡です。また、生産された瓶は「硫酸瓶」と呼ばれています。幅7.5m、煙突の高さ12.3m…

  • 下関・秋吉台・宇部エリア
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旦の登り窯

室積台場跡

江戸時代末、四国艦隊の報復攻撃に備え沿岸に砲台場を築いたもの。当時の長州藩は男手が不足し、後に残った婦女子が中心になってこれを築きました。このことから、通称「女台場」といわれています。市指定史跡となっています。

  • 岩国・柳井・周南エリア
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室積台場跡

唐樋札場跡(萩往還)

萩市の中心部、唐樋(からひ)町に位置する「札場跡」。藩府・萩と防府三田尻を結ぶ、萩往還の起点となる場所です。周防・長門両国の一里塚の基点とされました。また、幕府や藩からの「御触」(法令や規則など)が掲げられた高札も立っていました。

  • 萩・長門エリア
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唐樋札場跡(萩往還)

周防鋳銭司跡

最初に銭貨が鋳造された708年から平安時代初期にかけて、鋳銭の事業の大部分が、この鋳銭司で行われました。9世紀中頃まで鋳造していたが、いつの間にか廃絶しました。

  • 山口・防府エリア
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周防鋳銭司跡

普門寺塾跡

大村益次郎は普門寺の観音堂で学生たちに兵学をおしえていました。当時、この塾は普門寺塾と呼ばれていました。

  • 山口・防府エリア
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普門寺塾跡

萩反射炉

令和7年に世界文化遺産登録10周年

海防強化の一環として、西洋式の鉄製大砲鋳造を目指した萩藩が、安政3年(1856)に築いた反射炉の遺跡

  • 萩・長門エリア
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萩反射炉

大内氏遺跡附凌雲寺跡

吉敷中尾の高台に高さ3m、厚さ2mの石垣があり、凌雲寺総門の遺構といわれています。大内氏30代当主義興の墓があります。

  • 山口・防府エリア
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大内氏遺跡附凌雲寺跡

飢民の供養塔(大恩寺)

享保17年(1732年)、ウンカの異常発生によって西日本一帯は大凶作となり、庶民は飢えに苦しみました。ことに周防の国は悲惨で、備蓄用の倉を空にしてもなお手の施しようがなかったと言われています。飢民の供養塔は、この時の幾百人の餓死者を弔うためのものです。

  • 岩国・柳井・周南エリア
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飢民の供養塔(大恩寺)

明治維新百年記念公園

四境の役(慶応2年大島口の戦)の古戦場で、園内にはこの戦役で活躍した人々をたたえた記念碑がある。

  • 岩国・柳井・周南エリア
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明治維新百年記念公園

脱隊諸士招魂の碑

脱退諸士を慰霊する招魂碑

1869(明治2)年、藩政府は奇兵隊を含む諸隊を再編する兵制改革を行いました。これを不服とした約2千人の隊士が内乱を起こし、鎮圧され、首謀者らはこの地で処刑斬首されました。その霊を弔うため招魂碑が建てられました。 

  • 山口・防府エリア
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脱隊諸士招魂の碑

奥阿武宰判勘場跡

【全体概要】勘場跡は、貞享4年(1687年)から明治11年の初めまでの200年間、奥阿武宰判の代官所として、むつみ村、阿東町、須佐町、田万川町、阿武町(奈古を除く)を統括し、政治・文化の中心地でした。現在は、敷地及び周辺の石組みが残っています。

  • 萩・長門エリア
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奥阿武宰判勘場跡

長門鋳銭所跡

長門鋳銭所跡は、覚苑寺境内一帯と考えられ、奈良・平安時代に銭貨の鋳造を行った所です。長門国衙に付設され、その開設は和同年間(708~715)で、史跡地内からは、708年(和銅1)から鋳造が開始された貨幣である和同開珎1枚と、それを作ったときの型、るつぼや鞴口な…

  • 下関・秋吉台・宇部エリア
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長門鋳銭所跡

御山神社経塚

御山神社経塚は阿武町惣郷にある経塚。築造は12世紀ごろと推定されています。経塚は、永く後世に伝えるため経典を経筒などに入れて地中に納め、塚を築いたもので、この経塚は、御山神社社務所横の土中より発見されました。

  • 萩・長門エリア
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御山神社経塚

立石孫一郎の碑

第二奇兵隊幹部の立石孫一郎は、倒幕を急ぐあまり仲間を引き連れて隊を脱走し、倉敷代官所などを襲撃しました。その後、幕軍に追われることとなり、慶応2年(1866年)藩命に背いたとされ千歳橋の橋上で暗殺されました。その場所の近くに、石碑と小さな祠が建てら…

  • 岩国・柳井・周南エリア
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立石孫一郎の碑

明倫館遺構聖賢堂

 聖賢堂は藩校明倫館の聖廟前、観徳門の左右にあった東塾・西塾の遺構である。 明倫館廃校の後、両塾を合わせて1棟とし、市内東田町の阿呼社境内に移築されていたが、大正7年(1918)に再び元の地の明倫館跡へ移された。 建物は切妻造り、起こり屋根桟瓦葺き…

  • 萩・長門エリア
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明倫館遺構聖賢堂

寺島忠三郎関連史跡

寺嶋忠三郎は、天保14年(1843)近習寺嶋太治郎の二男として生まれました。16才で松下村塾に入り吉田松陰の弟子となり、尊王攘夷運動に尽くしましたが、禁門の変に際して久坂玄瑞とともに自刃しました。顕彰碑と辞世の碑が建てられています。

  • 岩国・柳井・周南エリア
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寺島忠三郎関連史跡

四境の役砲撃戦跡

四境の役大島口の戦において、戦火の火蓋が切られた戦いで、幕府軍軍艦から撃たれた砲撃の跡が浄西寺の石垣に今も残っている。

  • 岩国・柳井・周南エリア
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四境の役砲撃戦跡

上関砲台跡(室津日和山、長島東山)

江戸末期、毛利藩は外敵からの防衛の為に要所に砲台を築造した。上関海峡の両端(室津日和山、長島瀬戸東山)の丘にも砲台が築かれ大砲が備え付けられた。嘉永6年(1853)2月に吉田松陰が江戸へ行く途中、室津の日和山の砲台場を見学した。慶応二年(1866年)四…

  • 岩国・柳井・周南エリア
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上関砲台跡(室津日和山、長島東山)

呼坂宿駅本陣跡

関戸(岩国)、玖珂、椙杜、今市に次ぐ近世山陽道の宿駅です。

  • 岩国・柳井・周南エリア
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呼坂宿駅本陣跡

独立一勺の水

この地は、江戸時代に、真言宗龍門寺のあった所です。三代藩主広嘉の病気治療のため岩国を訪れ、錦帯橋創建のきっかけを作った独立禅師が、「一勺源頭の水…」の漢詩を詠んだといわれる所です。

  • 岩国・柳井・周南エリア
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独立一勺の水