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吉田松陰終焉の地

伝馬町獄は江戸時代最大の牢獄。安政の大獄に連座した吉田松陰らが投ぜられ、安政6年(1859)10月27日、処刑されました。(享年30) 今日、獄舎や刑場跡の一部は、十思公園などに姿を変えていますが、片隅には松陰の辞世「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも、留め…

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吉田松陰終焉の地

井上馨遭難の碑

井上は元治元年(1864)中園町袖解橋で藩庁の反対勢力に襲われ重傷を負いましたが、医者所郁太郎によって一命をとりとめました。

  • 山口・防府エリア
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井上馨遭難の碑

勝栄寺土塁及び旧境内

【全体概要】南北朝時代に陶弘政が創建した時宗寺院。南北朝時代の時宗寺院は、政治的、軍事的な性格を持ち、寺院でありながら城郭の機能を果たす例が多く、この時期に土累と環濠が設けられたと考えられています。県下における中世寺院城郭の唯一の例として貴重なもの…

  • 岩国・柳井・周南エリア
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勝栄寺土塁及び旧境内

大内氏遺跡附凌雲寺跡

吉敷中尾の高台に高さ3m、厚さ2mの石垣があり、凌雲寺総門の遺構といわれています。大内氏30代当主義興の墓があります。

  • 山口・防府エリア
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大内氏遺跡附凌雲寺跡

サビエル公園

サビエル布教地として記念碑とビリヨン神父の銅像がある。サビエル公園は山口市金古曽町に存在した大道寺跡地とされる場所に作られた公園で、サビエル記念碑も建てられています。 大道寺は大内義隆がサビエルに与え、布教の拠点となったでした。その後、サビエルは仲…

  • 山口・防府エリア
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サビエル公園

旦の登り窯

ノスタルジーに浸る窯跡

【全体概要】日本舎密(せいみ)製造株式会社(現:日産化学工業)の製造する硫酸などを運ぶための容器を、明治26年から旦の製陶所で生産していました。旦の登り窯は、その当時の窯跡です。また、生産された瓶は「硫酸瓶」と呼ばれています。幅7.5m、煙突の高さ12.3m…

  • 下関・秋吉台・宇部エリア
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旦の登り窯

久賀の石風呂

久賀の石風呂は、西日本最古の石積式蒸風呂で、構造は、地元の花崗岩石を積み上げて石室を築き、内部は粘土で厚く塗り、土間はたたき固めになっています。石室の大きさは、幅 5.4m、奥行4.6m、高さ2.5m、一度に17人入れるこの地方では最大規模のものとして知られ、…

  • 岩国・柳井・周南エリア
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久賀の石風呂

立石孫一郎の碑

第二奇兵隊幹部の立石孫一郎は、倒幕を急ぐあまり仲間を引き連れて隊を脱走し、倉敷代官所などを襲撃しました。その後、幕軍に追われることとなり、慶応2年(1866年)藩命に背いたとされ千歳橋の橋上で暗殺されました。その場所の近くに、石碑と小さな祠が建てら…

  • 岩国・柳井・周南エリア
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立石孫一郎の碑

唐樋札場跡(萩往還)

萩市の中心部、唐樋(からひ)町に位置する「札場跡」。藩府・萩と防府三田尻を結ぶ、萩往還の起点となる場所です。周防・長門両国の一里塚の基点とされました。また、幕府や藩からの「御触」(法令や規則など)が掲げられた高札も立っていました。

  • 萩・長門エリア
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唐樋札場跡(萩往還)

周防鋳銭司跡

最初に銭貨が鋳造された708年から平安時代初期にかけて、鋳銭の事業の大部分が、この鋳銭司で行われました。9世紀中頃まで鋳造していたが、いつの間にか廃絶しました。

  • 山口・防府エリア
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周防鋳銭司跡

伊藤井上両公上陸の碑

文久3年(1863年)、「長州ファイブ」の一員としてイギリスにいた伊藤博文、井上馨は、英米仏蘭の4ヶ国連合艦隊が下関を攻撃するとの情報に接し、英国留学を中断して帰国の途につきました。両名は、元治元年(1864年)6月24日に富海に上陸し、飛船問屋入本屋磯七の宅…

  • 山口・防府エリア
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伊藤井上両公上陸の碑

寺島忠三郎関連史跡

寺嶋忠三郎は、天保14年(1843)近習寺嶋太治郎の二男として生まれました。16才で松下村塾に入り吉田松陰の弟子となり、尊王攘夷運動に尽くしましたが、禁門の変に際して久坂玄瑞とともに自刃しました。顕彰碑と辞世の碑が建てられています。

  • 岩国・柳井・周南エリア
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寺島忠三郎関連史跡

大和屋政助の船蔵

江戸時代、富海浦は、旧山陽道の南方約18mのところに岸壁が広がっていました。記録によるとここでは、書状や小物、人を大阪へ運ぶ船頭二人乗りの飛船(とびふね)が頻繁に出入りし、「瀬戸内の飛脚船」として活躍したと残されています。当時、大和屋政助(やまとやま…

  • 山口・防府エリア
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大和屋政助の船蔵

涙松跡/涙松遺跡(萩往還)

人々が萩のまちとの別れを惜しみ涙した場所

江戸時代、萩城下から山口へ通じる藩主御成街道は、萩市大屋から左へ折れるので、城下が見えるのもここが最後となります。松並木の間に見え隠れする萩を見返り、別れの涙を流すというので、ここの街道並木を「涙松」と呼んでいます。幕末、吉田松陰が安政の大獄で江戸…

  • 萩・長門エリア
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涙松跡/涙松遺跡(萩往還)

金麗社

祭神は菅原道真、旧称天満宮。1865年、藩政府軍と諸隊が大田・絵堂で戦った際に、諸隊の本陣が置かれたところです。境内には、その時の戦利品や多くの石碑があります。

  • 下関・秋吉台・宇部エリア
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金麗社

奥阿武宰判勘場跡

【全体概要】勘場跡は、貞享4年(1687年)から明治11年の初めまでの200年間、奥阿武宰判の代官所として、むつみ村、阿東町、須佐町、田万川町、阿武町(奈古を除く)を統括し、政治・文化の中心地でした。現在は、敷地及び周辺の石組みが残っています。

  • 萩・長門エリア
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奥阿武宰判勘場跡

普門寺塾跡

大村益次郎は普門寺の観音堂で学生たちに兵学をおしえていました。当時、この塾は普門寺塾と呼ばれていました。

  • 山口・防府エリア
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普門寺塾跡

萩焼古窯跡群

【全体概要】江戸時代初期、萩藩主である毛利家は、文禄・慶長の役(1592~98)で連れ帰った朝鮮人陶工に命じて松本村中の倉(現萩市椿東)に御用窯を開きました。御用窯はそののち大津郡深川村三ノ瀬(そうのせ・現長門市湯本)にも分かれたため、それぞれの窯品を「松…

  • 萩・長門エリア
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萩焼古窯跡群

錦の御旗製作所跡

慶応3年(1867)討幕の勅命が下り、品川弥二郎は京都西陣で材料を購入し、ここにあった養蚕所の一室で御旗の製作にあたりました。ここで製作された錦の御旗が、鳥羽伏見の戦において官軍の陣頭に立てられました。

  • 山口・防府エリア
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錦の御旗製作所跡

吉田松陰詩碑

嘉永6年(1853)2月に吉田松陰が江戸へ行く途中、室津の日和山の砲台場を見学しました。同年10月、浦賀で黒船を見た松陰は、長崎にロシア船が来航したことを知り、密航して外国へ行くために船に乗ろうと長崎に向かう途中、ここ室津に寄り歌を詠みました。詩碑は松陰ゆ…

  • 岩国・柳井・周南エリア
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吉田松陰詩碑