室町時代に「西の京」山口で華ひらいた「大内文化」とは
「大内文化」とは、室町時代、山口を本拠に西日本一帯で大きな勢力を誇った守護大名の大内氏が、都のあった京都の文化と、朝鮮や明といった大陸の文化を融合させた独自の文化。大内氏が全盛期を迎えた14世紀半ばから16世紀半ばまでの約200年間で、「西の京」と呼ばれるほど栄えた山口のまちに今も残る大内文化の痕跡についてご紹介します。
「大内文化」を築いた大内氏って、どんな氏族?
画像:乗福寺境内にある琳聖太子供養塔(山口市教育委員会提供)
大内氏のルーツは、日本に仏教をもたらした人物として知られる朝鮮半島にあった百済国(くだらのくに)・聖明王(せいめいおう)の第3王子・琳聖太子(りんしょうたいし)との伝承があります。琳聖太子は推古天皇の時代に周防国多々良浜(現在の防府市)に着岸して、聖徳太子から周防国大内県を賜ったとされています。
はじめは多々良氏と名乗り、平安時代に16代盛房(もりふさ)が本拠地であった大内の地にちなんで、大内氏を名乗るようになったと伝えられています。
画像:28代大内教弘の時代に朝鮮王朝から与えられた「通信符(右印)」(毛利博物館所蔵)
武家の棟梁は自分たちのルーツを名家である源氏や平氏とすることが一般的だった時代に、なぜ大内氏は朝鮮半島にルーツがあると主張したのでしょう? 当時は「倭寇(わこう)」と呼ばれる密貿易を行う海賊が猛威を振るっていました。倭寇に悩まされていた朝鮮半島の王朝は、その討伐を日本に求め、応じた25代大内義弘(よしひろ)が1379年に功を上げると、義弘は朝鮮王朝と通交を始めるようになります。朝鮮半島との交易は大内氏に莫大な利益をもたらしたとされています。そこで交易上のさらなる優遇措置を取ってもらおうと考えた大内氏は、自らのルーツが朝鮮にあると主張することで、朝鮮の王朝に対して親近感を抱かせようとしたのではないかとも考えられています。
〈大内氏にまつわる文化財が見られるスポット〉
- 毛利博物館
- 毛利氏が大内氏から継承した文化財を所蔵
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「西の京」で栄えた大内文化
画像1:大内氏時代山口古図(山口県文書館所蔵)
画像2:京都の鴨川に見立てられた山口の中心を流れる一の坂川
「大内文化」の始まりは、室町幕府から周防・長門国の守護に任じられた24代大内弘世(ひろよ)が、1360年頃に政庁を山口に移してからといわれています。2代将軍・足利義詮(よしあきら)に会うため上洛した弘世は、京都から戻ると都の文化に感銘を受けて、山口に京を模した町の建設を始めました。大内氏館が置かれた山口の地形は、山を背に南が開けており、山丘が襟のように、川が帯のように囲み、中国の風水思想による四神獣(玄武・青龍・朱雀・白虎)が四方を守る「四神相応」の地といわれています。その中央を流れる一の坂川を京都の鴨川に見立ててまちづくりが行われ、以後約200年間に渡って「西の京」と呼ばれるほどの繁栄が築かれました。
〈大内文化の息吹が感じられるスポット〉
- 一の坂川
- 春は桜、初夏にはホタルが飛び交う山口の中心的存在
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- 竪小路
- 大内氏が京都に見立てて整備した町並みが残る
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- 大内氏館跡(大内氏遺跡)
- 大内氏が居館を置いた西日本の政治、経済、文化の中心地
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- 龍福寺
- 毛利隆元によって再興された31代大内義隆の菩提寺
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京都から勧請した山口の八坂神社
山口市にある八坂神社は、24代大内弘世が京都の祇園社を勧請してきたと伝えられています。八坂神社で毎年7月20日から27日にかけて行われるのが「山口祇園祭」。中日に行われる『市民総踊り』は、もともと祭りの賑やかしとして山口祇園祭とは別に始まったものですが、「おおうちの〜おとのさま〜」という歌に合わせて市民1,000人以上が踊る「大内の殿様音頭」の盛り上がりを見れば、大内氏がいかにこの地で親しまれてきた存在であったかがわかるでしょう。
画像:山口祇園祭で行われる「鷺の舞」
地元ライターが解説します!
今年の夏は「山口祇園祭」を見に行こう。ニューヨークタイムズ2024年に行くべき52ヵ所で大注目!
毎年7月20日~27日まで開催される山口市の「山口祇園祭」。2024年1月、アメリカの The New York Times(ニューヨーク・タイムズ)が発表した「52 Places to Go in 2024(2024年に行くべき52カ所)」で日本からは唯一「山口市」が選出された際の記事にもこのお祭りに関する記述があり、県内外、そして国内外からもこれまで以上に注目を集めています。
国宝・瑠璃光寺五重塔は、25代大内義弘の供養塔
画像:国宝・瑠璃光寺五重塔
室町時代中期の最も優れた建造物といわれ、日本三名塔にも数えられる瑠璃光寺五重塔は、「大内文化」が産み出した最高傑作で国宝に指定されています。高さは相輪の尖端まで31.2m、檜皮葺(ひわだぶき)の屋根が優美な曲線を作り出し、現地で見ると最上層の屋根の先が天に向かって強く反り上がっているように見えることから、その美しさは海外からの観光客にも高い人気を誇っています。
画像:イルミネーションイベント「山口ゆらめき回廊」会期中の瑠璃光寺五重塔
瑠璃光寺五重塔を建立したのは、26代大内盛見(もりみ/もりはる/もりあきら) 。その目的は、応永の乱で戦死した兄で25代の大内義弘の菩提を弔うためといわれています。義弘は室町幕府3代将軍の足利義満を支えた実力者でしたが、大内氏の勢力が大きくなることを恐れた義満に裏切られ、挙兵するもあえなく戦死をしていました。瑠璃光寺五重塔には、幕府勢力にも毅然と対抗した勇ましい大内義弘と、兄の菩提を弔う優しい盛見の大内魂がこもっているのです。
〈瑠璃光寺五重塔や関連イベントについてもっと知りたい方は〉
- 瑠璃光寺五重塔(香山公園)
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- 瑠璃光寺五重塔 第2弾プロジェクションマッピング「昇華₋shouka-大内文化」
- 「四季」をテーマに大内文化の世界観をプロジェクションマッピング!
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- ニューヨークタイムズ「2024年行くべき52か所」で注目の山口市!国宝・瑠璃光寺五重塔の貴重な姿は見なきゃ損!御朱印情報も♬
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香山公園で大内文化にふれる
瑠璃光寺五重塔がある香山公園には、山口に「西の京」を築いた24代大内弘世像をはじめ、大内氏の庇護のもとで大成した画家の雪舟像などがあり、大内文化の息吹にふれることができます。また大内氏の後、山口を治めた毛利本家の歴代墓所や、幕末の薩長同盟にゆかりの「枕流亭(ちんりゅうてい)」といった史跡もあるので、歴史好きの方にはたまらない見応えのある公園となっています。
画像:香山公園にある大内弘世公之像
大内氏は雪舟のパトロンだった!?
画像:雪舟筆「四季山水図」(毛利博物館所蔵)
雪舟は国宝「四季山水図」などを制作した室町時代を代表する画僧です。1467年、29代大内政弘(まさひろ)の時代に大内氏が運営する遣明船に乗って明へと渡った雪舟は、禅学や画技を修めて1469年に帰国。帰国後は応仁の乱で荒廃した京都を避け、大内氏の庇護のもと山口天花の雲谷庵を拠点に活動し、数々の名作を残しました。
画像:雪舟のアトリエがあったと伝えられる七尾山麓に建つ雲谷庵跡
京都で応仁の乱が起きていた時代の大内家当主は、29代政弘。政弘は戦火に巻き込まれることを嫌った京都の公家や学者を山口に受け入れていましたが、その中には雪舟をはじめ、連歌師の宗祇といった当代きっての一流文化人が多く含まれていて、彼らの活動が大内文化の発展に大きく貢献しました。
画像:常栄寺雪舟庭
29代大内政弘が雪舟に築庭させたと伝えられる常栄寺雪舟庭は、大内文化を代表する庭園の1つです。遠近法が巧みに用いられたこの庭は、まるで雪舟が描く水墨画世界のようで、芸術家としての雪舟の魅力をより一層感じることができます。
〈雪舟関連スポット〉
大内氏はフランシスコ・サビエルの庇護者でもあった!?
画像:山口サビエル記念聖堂
日本にキリスト教を伝えた宣教師のフランシスコ・サビエルは、1550年と51年に山口を訪れたと伝えられ、時の当主であった31代大内義隆(よしたか)から布教の許可と、その活動の拠点として大道寺が与えられました。サビエルはその後、義隆が重臣の陶(すえ)氏によるクーデターで自刃に追い込まれた際には、豊後国の大友氏の招きによって山口を離れていたため難を逃れましたが、目指していた中国へ行く途中で病に倒れ、この世を去ります。
画像:大道寺跡とされる場所に建つサビエル記念碑
その後、大道寺はサビエルとともに行動していた宣教師のトーレスによって運営され、日本の最初期のキリスト教会になったと考えられています。1949年にはサビエル来日400年を記念し、山口市亀山にサビエル記念聖堂が建てられることになり、1952年に完成しましたが、1991年に惜しくも火事で焼失してしまいました。1998年には多くの寄付や支援によって再建を果たし、今も山口ではサビエルの志が受け継がれています。
画像:「12月、山口市はクリスマス市になる。」のイルミネーション
さらに、日本で最初のクリスマスミサが行われたのも山口だといわれています。サビエルが山口を離れた後、山口にはサビエルと行動をともにしていたトーレス神父が残り、そこに来日したばかりのガーゴ神父や他の修道士たちが集まって、1552年に「降誕祭」を祝いました。これが日本で最初に祝われたクリスマスだといわれています。この史実にちなんで、毎年12月には山口市内の各所でイルミネーションが街を彩るイベント「12月、山口市はクリスマス市になる。」が開催されます。期間中はクリスマス気分を盛り上げるコンサートやワークショップ、グルメイベントなども行われるので、12月はぜひ山口へお越しいただき、一緒にクリスマスをお祝いしましょう!
〈フランシスコ・サビエル関連スポット〉
中世史上最大の宴は、大内氏館で繰り広げられた!?
画像:大内氏館で行われた宴の料理を再現(山口市教育委員会提供)
現在の山口市大殿大路にある龍福寺には、大内氏の歴代当主が日常生活を送り、政務を執った大内氏館がありました。1500年には当時の当主・30代大内義興(よしおき)が、室町幕府10代将軍の地位を追われた足利義稙(よしたね)をこの大内氏館に招いて、中世最大級といわれる宴を催していたことがわかっています。その記録によると、14時頃大内氏館に入った前将軍足利義稙が、館を後にしたのはなんと翌朝の4時。その間、31以上のお膳と110品以上の料理が供され、義稙を大歓待したとか。その後、義興は義稙を奉じて上洛し、将軍に復帰させると、管領代として11年間も京都にとどまって、室町幕府の実権を握りました。
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大内氏館はどのような館だったのか?
大内氏館は、山口市大殿大路にある龍福寺のあたりにあったといわれています。近年行われた発掘調査では、南北約40m、東西約20mの池泉庭園や枯山水庭園など、4つの庭園が見つかっています。また、井戸跡からは金箔土師器皿(金箔を貼った皿で、一回使うごとに廃棄されていた)や、中国産の壺などが発掘されていて、当時、都で流行していた文化を大内氏が取り入れていたことがわかっています。前将軍を招いた宴も、広大な庭を眺めながら優美な雰囲気のなかで行われていたのでしょうね。
画像:龍福寺で発掘された大内氏館跡
大内氏ゆかりの神社に見られる楼拝殿造
画像1:今八幡宮楼門
画像2:古熊神社拝殿
山口県内にある神社の社殿には、大内氏が統治した時代に生まれたと考えられる「楼拝殿造(ろうはいでんづくり)」という独特の建築様式が見られます。楼拝殿造とは、通常は別々の場所にある楼門と拝殿が一緒になった様式の建築で、山口市大殿地区の今八幡宮や古熊神社などで見ることができます。なかでも今八幡宮は現存する最古の楼拝殿造といわれ、大内時代の建築様式を現在に伝えています。
画像:31代大内義隆の菩提寺・龍福寺山門に見られる大内菱
また、山口県内にある寺社建物の意匠には、大内氏の家紋「大内菱(おおうちびし)」が用いられることが多く、国宝・瑠璃光寺五重塔でも見ることができます。大内菱の意匠は、大内氏が滅亡した後の時代にも使われていることから、山口県内での大内氏に対する信望がいかに篤かったかが伺えます。大内菱を探しながら県内の寺社を訪ね歩くのも、通な楽しみ方ですね!
〈大内氏ゆかりの寺社関連スポット〉
大内氏の力の源泉は、遣明船運営にあり!!
画像:興隆寺境内跡地から発掘された膨大な数の銅銭(山口県立山口博物館所蔵)
大内氏が西日本に広く強い権力を持った背景には、海外との交易による豊かな富がありました。14世紀末から始まった朝鮮王朝との交易に加え、15世紀半ばには28代大内教弘(のりひろ)が遣明船運営に参入します。大内氏は明の皇帝に馬や鉱物、工芸品、武具などを献上。これら輸出品の多くは大内氏の勢力下にあった博多の商人をはじめ、30代大内義興の頃には大阪・堺の商人などによって集められていました。
画像:法華経の経典を印刷、出版するため製作された「大内版法華経板木」(山口県文書館所蔵)
明からの輸入品は金襴(きんらん)と呼ばれる高価な織物や陶磁器、宋や元の時代の絵画などで、当時、明や朝鮮半島などから輸入されたものは、国内で「唐物」と呼ばれ珍重されていました。大内氏はそれらの高級品を惜しげもなく天皇や公家、将軍家などへと贈り、中央権力に多大な影響力を及ぼすようになっていきました。また遣明船運営によって富だけでなく、大陸の最先端の文物も山口に集まってくるようになりました。こうして山口には「西の京」と呼ばれるほど豊かな文化が華ひらいていったのです。
大内文化を代表する伝統的工芸品「大内塗」
画像:漆絵枝菊椀(大内椀)(毛利博物館所蔵)
「大内塗」は、京都の文化に憧れを持っていた24代大内弘世が、都から漆塗り職人を呼び寄せて漆器を作らせたのが始まりといわれています。多くは「大内朱」と呼ばれる深い朱色の漆の上に、金箔で大内氏の家紋「大内菱」や秋の草花の文様をあしらっているのが特徴で、大内時代には輸出品として明や朝鮮王朝との交易に用いられていました。16世紀半ばの大内氏滅亡に伴い、大内塗の生産は次第に衰えていきましたが、その技術は現在にまで受け継がれています。
画像:大内人形(一般財団法人山口観光コンベンション協会提供)
大内塗にはお椀やお盆などの製品もありますが、「大内人形(大内雛)」はお土産品として特に人気があります。24代大内弘世が京都から嫁いできた姫が寂しがらないように、都の人形職人を呼び寄せ、屋敷中を人形で飾ったという逸話に基づき作られるようになったという大内人形は、丸くコロンとしたフォルムの可愛らしさも相まって、夫婦円満の象徴として親しまれています。
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「西の京」と呼ばれ栄えた大内文化のふるさと、山口へ
画像:瑠璃光寺五重塔がある香山公園(一般財団法人山口観光コンベンション協会提供)
室町時代に現在の山口県を中心に九州北部から中国地方西部にかけてを支配し、31代大内義隆の時代には名実ともに「西国一」の大名となった大内氏ですが、1551年に重臣であった陶隆房(すえたかふさ)らのクーデターに遭い、義隆は自刃。跡目を継いだ32代大内義長も1557年には、安芸国の毛利元就に攻められて大内氏は滅亡してしまいます。
室町幕府の守護としてその影響力を京都の中央政界に及ぼしつつ、朝鮮半島や中国大陸の明などとも通交して、西日本で絶大な権勢を誇った大内氏。大内氏が本拠とした山口の地には、京都の文化と中国大陸をはじめとする海外の文化が融合した独自の「大内文化」が華ひらいていました。「西の京」と謳われるほど栄えた大内文化の息吹を感じに、皆様も山口へ足を運んでみませんか。
〈 大内文化を感じる地を巡ろう 〉
- 毛利氏庭園・毛利博物館
- 一の坂川
- 竪小路
- 大内氏館跡(大内氏遺跡)
- 龍福寺
- 八坂神社
- 瑠璃光寺五重塔(香山公園)
- 常栄寺雪舟庭
- 雲谷庵跡
- サビエル記念聖堂
- サビエル公園
- 今八幡宮
- 古熊神社
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「2024年に行くべき52カ所」に「山口市」が選ばれました!!
2024年1月9日に、アメリカの The New York Times(ニューヨーク・タイムズ)が「52 Places to Go in 2024(2024年に行くべき52カ所)」を発表し、日本からは唯一「山口市」が選ばれました。室町時代に「西の京」と呼ばれ栄えた大内文化の伝統を現代に受け継ぐ、持続可能な町としての魅力が評価されています。
地元ライターが行ってみた!
【山口市】定番観光モデルコースのご提案からご当地グルメ「ばりそば」まで!世界が注目する小京都・山口市へ日帰り旅!
「西の京」山口の魅力を満喫するおすすめスポットをご紹介!山口県在住7年目にして山口市観光は初心者の私ならでは!? の目線で、実際に観光を楽しんできました♪