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幕末を感じる
吉田松陰や高杉晋作など、幕末~明治に活躍した志士を多く輩出した山口県。日本を変えた志士たちの足跡を探しに、歴史を感じる旅へ出かけましょう。

吉田松陰や高杉晋作など、幕末~明治に活躍した志士を多く輩出した山口県。日本を変えた志士たちの足跡を探しに、歴史を感じる旅へ出かけましょう。
【令和の大改修】約70年ぶりの檜皮葺屋根の全面葺き替え工事中。(2023年4月~2026年3月予定)公園内の出入りは可能です。詳細は下段基本情報のwebサイトをご覧ください。現在工事の幕は外されました。【News】ニューヨーク・タイムズ紙「2024年に行くべき52カ所」に「…
分厚い白壁の重厚な武家屋敷、夏みかんが顔を出す土塀や鍵曲など、かつて城下町として栄えた町並みが色濃く残る萩城下町。高杉晋作や木戸孝允など幕末から明治維新に活躍した偉人の生家が現存し、その足跡をたどることもできる見どころ豊富な城下町です。町筋は碁盤目…
■一度は訪れたい、歴史好きや幕末ファンの聖地松下村塾は、幕末の志士を数多く輩出した、いわば「明治維新胎動の地」です。わずか1年余りの間に、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、山田顕義、品川弥二郎など、幕末の明治維新で活躍した多くの逸材を育てました…
東行庵は、幕末維新の志士 高杉晋作の慰霊の地で、晋作の霊位礼拝堂として明治17年(1884)に創建されました。墓地や記念館等を中心に、周辺は自然公園にもなっており、境内一帯は、早春には梅、初夏は菖蒲、秋は紅葉に彩られます。「東行」は晋作の号で、遺言により…
1604年(慶長9年)、関ケ原の戦いに敗れた毛利輝元は、指月山に萩城を築城しました。萩城は、江戸時代には珍しく周囲を石垣と土塀で囲った本格的な山城で、指月山に築城されたことから「指月城」とも呼ばれていました。1874年(明治7年)に解体されてしまいましたが、…
功山寺は、鎌倉幕府が滅ぶ6年前、1327年に開かれた曹洞宗の寺院です。唐様建築特有の美しさをもつ仏殿は、国宝に指定されています。春は桜、秋は紅葉が美しく、特に紅葉のシーズンは県内外の多くの観光客で賑わいます。国宝の仏殿と真っ赤な紅葉のコントラストは、秋…
吉田松陰を祭神とし、伊藤博文らによって建立された「松陰神社」。境内には世界遺産の「松下村塾」や「吉田松陰幽囚ノ旧宅」など吉田松陰にまつわる史跡が残る萩を代表する歴史スポット。数多くの著名な門下生を輩出した「松下村塾」の師である吉田松陰の生き方に感銘…
萩藩の教育や人材育成の中枢を担った「藩校明倫館」。その跡地に建築され、国の登録有形文化財に登録された本館を含む旧明倫小学校の日本最大級の木造校舎群を改修整備し、萩の新たな観光施設となっています。本館では、萩の観光、藩校明倫館から旧明倫小学校までの30…
桜の名所として知られ、関門海峡を見晴らす公園。園内には、昭和31年(1956)、没後90年を記念して建立された高杉晋作の陶像が立っています。高杉晋作は、萩に生まれ、松下村塾に学び、幕末の最強軍団「奇兵隊」を創設、長府功山寺の挙兵を機に長州藩を討幕運動の主役…
源義経が壇之浦の合戦に際し、戦勝を祈願した神を祀ります。長い石段を登りつめた境内には、珍しい「七卿落ち」の画碑があります。「七卿落ち」とは、文久3年(1863)8月、京都朝廷で起こった政変により、反幕派7人の公卿が京都から追放され長州に下った事件をいいま…
幕末の風雲児・高杉晋作の誕生地。現在は、南側半分が公開されており、産湯に使ったと伝えられる井戸や自作の句碑などがあります。天保10年(1839)に萩藩大組士、禄高200石 高杉小忠太の長男として生まれた晋作は、藩校明倫館に通う一方で松下村塾に通い、久坂玄瑞と並…
1200余年前に来日した唐僧為光(いこう)和尚により創建された寺。境内北側の書院の前に、室町初期様式の須弥山禅寺庭園があります。山口県内最古の庭園で、南北朝時代の典型的地割りによる「夜泊石」や「干潟様」の作庭は全国でも貴重。築山と池を組み合わせた庭で竜…
幕末の産業化に取り組み産業文化の形成といった地域社会においての人材育成の施設として、松下村塾とともに世界遺産に登録されている「吉田松陰幽囚ノ旧宅」(杉家旧宅)。【 2015年7月世界遺産登録『明治日本の産業革命遺産』 】松陰は、実家杉家の4畳半の一室で前…
病をおして小倉口の戦いを指揮した高杉晋作が、慶応3年(1867)4月、27歳8カ月の短くも激しい生涯を閉じた場所です。辞世の「おもしろきこともなき世をおもしろく…」は、晋作の人生観とその凝縮された生涯が見事に表された句としてよく知られています。
湯田温泉中心部のこの地は、明治の元勲「井上馨」の生家があったところで、幕末の政変で都をおわれた三条実美ら七卿の宿舎にもなっていました。公園内には井上馨の銅像や七卿の碑のほか、異郷の地で短い生涯を閉じた山口市の生んだ詩人中原中也の詩碑、種田山頭火の句…
御茶屋とは、参勤交替や領内巡視の時の旅館として、また他藩の特使等をもてなす時などに使用していた藩の公館です。萩藩7代藩主で、防府の発展に尽力した毛利重就が隠居後にここに住みました。幕末には京都の政変の難を逃れた三条実美などの七卿をはじめ、志士たちが…
宇部の領主福原家は毛利藩の永代家老として、萩堀内の屋敷に暮らし、宇部の邸は御田屋(おたや:遠方の田地を経営するために設けた建物)と呼ばれていました。1976年(昭和51年)、市の史跡公園として開放された園内には、井戸跡、屋敷神、樹木が残存しています。表門…
吉田松陰門下で、高杉晋作とともに松下村塾の双壁と称せられ、松陰から「防長年少第一流」と絶賛され ました。蛤御門の変で負傷し、鷹司邸で自刃しました。
吉田松陰は、天保元年(1830)に家禄26石 萩藩士 杉百合之助の次男としてこの地で誕生し19歳頃までを過ごしました。萩市内を一望できる「団子岩」とよばれる高台にあり、風光明媚な場所です。誕生地そばには吉田松陰・金子重輔の銅像があり、海外密航を企てた松陰先生と…
萩市堀内にある旧天樹院墓所は、山口市に所在する香山墓所、萩市に所在する大照院墓所、東光寺墓所とともに、長州藩36万石の藩主の墓地。萩藩を創設した毛利輝元の墓所で、天樹院は現在は廃寺となっています。2015年7月明治日本の産業革命遺産として世界遺産に登録さ…
十朋亭は、代々醤油製造を業とする萬代家の離れとして建てられました。幕末期に長州藩主毛利敬親が、萩から山口へ藩庁を移した際、藩の役人たちの宿舎として利用されました。当主・萬代利兵衛が志士達の活動を援護していたことから、多くの来客があったと伝えられ、桂…
慶応元年(1865)に拠点を吉田に移した奇兵隊が、慶応3年(1867)8月から明治2年(1869)11月の解散まで陣屋(本陣)を置いたところ。400人の隊士が厳しい規律に従って訓練に明け暮れました。当時の堤防が名残をとどめています。
吉田松陰の墓は、松陰誕生の地に隣接し、団子岩とよばれる小高い風光明媚な所に建っています。墓碑は高さ0.8m、幅0.45m、礎石からの高さ1.6mの花こう岩質の自然石で作られ、表に「松陰二十一回猛士墓」、裏に「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸…
高杉晋作は小倉戦争で、長州軍を指揮して幕府軍と戦いましたが、この戦いで持病の結核が悪化し、桜山神社の近くに小さな家を建てて、野村望東尼(のむらもとに)、愛人おうのの看病による療養生活を送りました。*写真の「高杉東行」の「東行」とは、晋作の号のことで…
1817年(文化14年) に妙円寺に生まれた僧月性。九州で遊学中に長崎でオランダ船を目撃し、海防の必要を感じ、帰郷後の1848年(嘉永元年)に私塾「清狂草堂(せいきょうそうどう:別名・時習館)」を開き、子弟の教育に努めました。門下生には久坂玄瑞をはじめ、多くの志を…
この辺りはかつての江戸堀の一角で、江戸時代には諸藩の蔵屋敷が立ち並んでいた。ここには広大な長州萩藩の蔵屋敷があった。
https://yamaguchi-tourism.jp/spot/detail_17981.html幕末の混乱した時代に、勤王歌人として、また志士の母として慕われた野村望東尼が、歌友荒瀬ゆり子宅で他界しました。宅跡は三田尻本町に、墓は桑山にあります。
祭神は菅原道真、旧称天満宮。1865年、藩政府軍と諸隊が大田・絵堂で戦った際に、諸隊の本陣が置かれたところです。境内には、その時の戦利品や多くの石碑があります。
吉田松陰の歌碑が建っています。安政の大獄で、幕府の召喚をうけた吉田松陰が籠で護送される途中、広島県との境である小瀬川に差し掛かかった際、防長二州と最後の別れを覚悟して惜別の歌を詠みました。現在、小瀬川にはこの歌を刻んだ吉田松陰歌碑が建てられています…
萩本藩の出先機関だったところで、高杉晋作たちが、俗論派政権打倒のため最初に襲撃し、占拠した場所です。
楫取素彦は1829年(文政12)、萩藩医松島瑞璠の次男として萩に生まれ、初め伊之助と称した。兄に洋学者の松島剛蔵がおり、12 歳の時に萩藩の儒者小田村吉平の養子となった。藩校明倫館で教授し、のち吉田松陰の妹寿と結婚して、松下村塾でも指導にあたった。四境戦争…
江戸末期、毛利藩は外敵からの防衛の為に要所に砲台を築造した。上関海峡の両端(室津日和山、長島瀬戸東山)の丘にも砲台が築かれ大砲が備え付けられた。嘉永6年(1853)2月に吉田松陰が江戸へ行く途中、室津の日和山の砲台場を見学した。慶応二年(1866年)四…