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幕末を感じる
吉田松陰や高杉晋作など、幕末~明治に活躍した志士を多く輩出した山口県。日本を変えた志士たちの足跡を探しに、歴史を感じる旅へ出かけましょう。
吉田松陰や高杉晋作など、幕末~明治に活躍した志士を多く輩出した山口県。日本を変えた志士たちの足跡を探しに、歴史を感じる旅へ出かけましょう。
【令和の大改修】約70年ぶりの檜皮葺屋根の全面葺き替え工事中。(2023年4月~2026年3月予定)公園内の出入りは可能です。詳細は下段基本情報のwebサイトをご覧ください。
【News】ニューヨーク・タイムズ紙「2024年に行くべき52カ所」に「山口市」が選ばれ、瑠璃光寺五重塔が紹介されました!関連記事を読む
日本三名塔のひとつに数えられる国宝 瑠璃光寺五重塔。室町時代、長門・周防国(現在の山口県)の守護であった24代大内弘世が、京の都を模した街づくりを進めた山口の地で花開いた大内文化の最高傑作と言われています。
五重塔は現在改修の為、シートで覆われており見ることが出来ませんが、夜にはプロジェクションマッピングが行われています。
四季をテーマにした壮大な映像と音楽が織りなす演出では、大内文化の世界観をより深く感じられます。歩くごとにプロジェクションマッピングが変化する通路もあるので、ぜひ歩いてみてください。
1時間半ほどで散策できる香山公園は、桜や梅、紅葉の名所としても知られ、園内には五重塔をはじめとしたさまざまな史跡も点在しています。歴史の流れを感じながら、ゆったりとした散策を楽しめる公園です。
【テレビで紹介されました】
・2024年6月27日(木)放映:あさイチ「愛(め)でたいnippon いま行っておきたい!山口」
・2024年2月7日(水)放映:解体キングダム「国宝・瑠璃光寺五重塔を 解体修復せよ!」
分厚い白壁の重厚な武家屋敷、夏みかんが顔を出す土塀や鍵曲など、かつて城下町として栄えた町並みが色濃く残る萩城下町。高杉晋作や木戸孝允など幕末から明治維新に活躍した偉人の生家が現存し、その足跡をたどることもできる見どころ豊富な城下町です。町筋は碁盤目状に区画され、古民家カフェや雑貨屋、史跡などが点在。散策の楽しい町になっています。
着物をレンタルして町を歩けば、まるで江戸時代にタイムスリップしたような気持ちに。萩の街をもっと詳しく知りたければ、ガイドウォークやガイド付き人力車のコースもあります。また、レンタサイクル、シェアサイクル、レンタル原付のほか、電動キックボードなどもあり、アクティブに楽しめそう!
「明治日本の産業革命遺産」の構成要素の一つとして世界遺産にも登録されている町並みで、あなただけのお気に入りのスポットを探して散策してみてください。
【NHK総合ブラタモリに登場】
2023年10月26日(木)放映のブラタモリセレクション「萩 〜萩はなぜ 世界遺産になった?〜」に、萩城下町が登場!
吉田松陰が主宰した私塾「松下村塾」。世界遺産にも登録されています。松陰の叔父、玉木文之進が自宅で私塾を開いたのが始まりで、幕末には高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など日本の近代化に重要な役割を果たした名だたる人材を輩出しました。
松陰は、階級や身分に関係なく塾生を受け入れました。
「学は人たる所以を学ぶなり。塾係くるに村名を以てす。(学問とは、人間はいかにあるべきか、いかに生きるべきかを学ぶことである。これを学ぶ塾の名前に村名をあてた)」と『松下村塾記』に記し、知識を得るだけの学問ではなく、志ある人材を育成しようとしました。教え子たちの長所を伸ばし、講義より討論を重視した松下村塾で学んだ塾生たちが、後に明治維新を担う志士として活躍したのです。
現在、松下村塾は松陰神社の敷地内にあり外観のみ見学自由です。幕末当時に建てられた建物が現存しており、当時と同じ位置にあります。室内には松陰の人物像や、ここに通っていた人物、松陰と関わりのあった人物の写真が展示されています。
当時に思いを馳せながら、幕末ゆかりの松下村塾を見学してみてください。
功山寺は、鎌倉幕府が滅ぶ6年前、1327年に開かれた曹洞宗の寺院です。唐様建築特有の美しさをもつ仏殿は、国宝に指定されています。
春は桜、秋は紅葉が美しく、特に紅葉のシーズンは県内外の多くの観光客で賑わいます。国宝の仏殿と真っ赤な紅葉のコントラストは、秋を感じる風光明媚な眺めです。また、周りの木々に取り囲まれているため、紅葉が遅いことでも有名です。
高杉晋作が挙兵した寺としても知られ、境内にある馬上姿の銅像からはわずか80名という少人数で藩に立ち向かった晋作の強い決意が伺えます。
境内は見学自由で、毛利家のお墓や都落ちした五卿が滞在した書院など、幕末ゆかりの文化財が残っています。歴史に思いを馳せながら散策をお楽しみください。
1604年(慶長9年)、関ケ原の戦いに敗れた毛利輝元は、指月山に萩城を築城しました。萩城は、江戸時代には珍しく周囲を石垣と土塀で囲った本格的な山城で、指月山に築城されたことから「指月城」とも呼ばれていました。
1874年(明治7年)に解体されてしまいましたが、敷地内には城ファン必見の石切り場の跡や志都岐山神社、花江茶亭などが残り、当時の様子をうかがい知ることができます。2015年には、城下町と一緒に世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成遺産に登録されました。
また、桜の名所としても有名で、華やかな着物を着た人々と舞い散る桜のコラボレーションは萩の春の風物詩となっています。
東行庵は、幕末維新の志士 高杉晋作の慰霊の地で、晋作の霊位礼拝堂として明治17年(1884)に創建されました。「東行」は晋作の号で、遺言により奇兵隊の陣屋があった吉田の清水山に葬られ、墓碑表面には「東行墓」と刻まれています。晋作の菩提を弔うために、愛妾おうのは、梅処と称して庵を結び、生涯、晋作の墓を守って暮らしました。東行記念館には、晋作や奇兵隊に関する調度品や資料が多数残されています。
墓地や記念館等を中心に、周辺は自然公園にもなっており、境内一帯は、早春には梅、初夏は菖蒲、秋は紅葉に彩られます。
つばき:1月上旬~3月下旬
うめ:2月中旬~3月中旬
しょうぶ:5月下旬~6月中旬
さざんか:10月中旬~1月下旬
紅葉:11月上旬~下旬頃
桜の名所として知られ、関門海峡を見晴らす公園。
園内には、昭和31年(1956)、没後90年を記念して建立された高杉晋作の陶像が立っています。
高杉晋作は、萩に生まれ、松下村塾に学び、幕末の最強軍団「奇兵隊」を創設、長府功山寺の挙兵を機に長州藩を討幕運動の主役へと導きますが、維新実現を目前に没しました。
源義経が壇之浦の合戦に際し、戦勝を祈願した神を祀ります。長い石段を登りつめた境内には、珍しい「七卿落ち」の画碑があります。「七卿落ち」とは、文久3年(1863)8月、京都朝廷で起こった政変により、反幕派7人の公卿が京都から追放され長州に下った事件をいいます。
境内前の大鳥居は、白石正一郎が寄進したもので、その大きさに当時の豪商の経済力がうかがえます。
夜間はライトアップが行われます。
参拝自由。
吉田松陰を祭神とし、伊藤博文らによって建立された「松陰神社」。境内には世界遺産の「松下村塾」や「吉田松陰幽囚ノ旧宅」など吉田松陰にまつわる史跡が残る萩を代表する歴史スポット。
数多くの著名な門下生を輩出した「松下村塾」の師である吉田松陰の生き方に感銘を受けた、多くの幕末ファンが参拝に訪れています。
また学問の神様として、大勢の受験生が合格祈願に訪れます。
松陰先生の教訓入りおみくじや、和傘の形をした「傘みくじ」が人気で、色とりどりの傘みくじが結ばれた木は、フォトジェニックなスポットにもなっています。
旅行会社さま募集型旅行では、普段は上がることのできない松下村塾に特別に上がり、宮司による特別講話を体験いただけます。(有料)
萩藩の教育や人材育成の中枢を担った「藩校明倫館」。その跡地に建築され、国の登録有形文化財に登録された本館を含む旧明倫小学校の日本最大級の木造校舎群を改修整備し、萩の新たな観光施設となっています。
本館では、萩の観光、藩校明倫館から旧明倫小学校までの300年の歴史など、興味を喚起する大画面で情報発信している観光インフォメーションセンターや、旧萩藩校明倫館展示室、復元教室が開設。豊富な萩の幸を使ったレストランやお土産を取り揃えたショップでは、萩のブランド魚や萩にしかないものを取り揃えております。
2号館(有料)では、萩の5資産を含む世界遺産を紹介する『世界遺産ビジターセンター』と、幕末維新の科学技術の視点で紹介する『幕末ミュージアム』で、近代日本の原点や明治の工学化と長州ファイブをわかりやすく紹介しています。
手荷物を預かりホテルにお届けする「手ぶら観光サービス」を行っています。また、お荷物の一時お預かりやコインロッカーもございます。
幕末の風雲児・高杉晋作の誕生地。現在は、南側半分が公開されており、産湯に使ったと伝えられる井戸や自作の句碑などがあります。
天保10年(1839)に萩藩大組士、禄高200石 高杉小忠太の長男として生まれた晋作は、藩校明倫館に通う一方で松下村塾に通い、久坂玄瑞と並んで「松門の双璧」と称されました。
外国に支配される清国(現:上海)を視察し危機感を抱いた晋作は、文久3年(1863)に身分を問わない我が国初の軍事組織「奇兵隊」を結成。討幕戦を勝利へと導きましたが、胸の病が悪化し、下関・吉田(現:東行庵)に隠居。慶応3年(1867) 結核のため、27歳と8ヶ月という若さでこの世を去りました。
市内の萩博物館には、「高杉晋作資料室」があり、産着から最晩年の書まで晋作に関する資料が数多く展示されていますので、一緒に見学するのもおすすめです。
誕生地の近くの「晋作広場」には、明倫館や松下村塾に通っていた20歳頃の若々しく凛々しい顔をイメージした「高杉晋作立志像」が建立されています。両刀を差した羽織、袴の立ち姿で、誕生地と萩城の方角を向いて建てられています。
広場には晋作が好きだった梅の花も植樹されています。
1200余年前に来日した唐僧為光(いこう)和尚により創建された寺。
境内北側の書院の前に、室町初期様式の須弥山禅寺庭園があります。
山口県内最古の庭園で、南北朝時代の典型的地割りによる「夜泊石」や「干潟様」の作庭は全国でも貴重。築山と池を組み合わせた庭で竜心庭(りゅうしんてい)と呼んでいます。紅葉に彩られた庭園は格別です。
吉田松陰門下で、高杉晋作とともに松下村塾の双壁と称せられ、松陰から「防長年少第一流」と絶賛され ました。
蛤御門の変で負傷し、鷹司邸で自刃しました。
湯田温泉中心部のこの地は、明治の元勲「井上馨」の生家があったところで、幕末の政変で都をおわれた三条実美ら七卿の宿舎にもなっていました。
公園内には井上馨の銅像や七卿の碑のほか、異郷の地で短い生涯を閉じた山口市の生んだ詩人中原中也の詩碑、種田山頭火の句碑などがあります。
足湯も整備されています。
吉田松陰の墓は、松陰誕生の地に隣接し、団子岩とよばれる小高い風光明媚な所に建っています。
墓碑は高さ0.8m、幅0.45m、礎石からの高さ1.6mの花こう岩質の自然石で作られ、表に「松陰二十一回猛士墓」、裏に「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸歿、享年三十歳」と刻まれています。
万廷元年(1860)2月7日は松陰の没後100ヵ日に当たるので、生家の杉家では100ヵ忌を営み遺髪を埋めて造られたもので、墓前には、門人17名が寄進して、その名を公然と刻んだ石製水盤、花立、燈籠が供えられています。
また、この墓所には杉家、吉田家、玉木家、久坂家一族と高杉晋作などの墓が立ち並び、幕末の日本史上に影響を与えた松陰と係りの深い人々との墓所として歴史的に重要です。
御茶屋とは、参勤交替や領内巡視の時の旅館として、また他藩の特使等をもてなす時などに使用していた藩の公館です。
萩藩7代藩主で、防府の発展に尽力した毛利重就が隠居後にここに住みました。
幕末には京都の政変の難を逃れた三条実美などの七卿をはじめ、志士たちが出入りする歴史の舞台となりました。
昭和14年(1939)防府市に寄贈され、重就の法名にちなんで「英雲荘」と命名されました。現在、建物は一般公開されています。
慶応元年(1865)に拠点を吉田に移した奇兵隊が、慶応3年(1867)8月から明治2年(1869)11月の解散まで陣屋(本陣)を置いたところ。400人の隊士が厳しい規律に従って訓練に明け暮れました。当時の堤防が名残をとどめています。
病をおして小倉口の戦いを指揮した高杉晋作が、慶応3年(1867)4月、27歳8カ月の短くも激しい生涯を閉じた場所です。辞世の「おもしろきこともなき世をおもしろく…」は、晋作の人生観とその凝縮された生涯が見事に表された句としてよく知られています。
萩市堀内にある旧天樹院墓所は、山口市に所在する香山墓所、萩市に所在する大照院墓所、東光寺墓所とともに、長州藩36万石の藩主の墓地。
萩藩を創設した毛利輝元の墓所で、天樹院は現在は廃寺となっています。
2015年7月明治日本の産業革命遺産として世界遺産に登録された萩城下町にあります。
1817年(文化14年) に妙円寺に生まれた僧月性。九州で遊学中に長崎でオランダ船を目撃し、海防の必要を感じ、帰郷後の1848年(嘉永元年)に私塾「清狂草堂(せいきょうそうどう:別名・時習館)」を開き、子弟の教育に努めました。
門下生には久坂玄瑞をはじめ、多くの志を持った人材が集まり、清狂草堂は松下村塾と並び、討幕に活躍した多くの門人を生みました。
柳井市遠崎妙円寺の境内には、清狂草堂と月性展示館があります。月性展示館では月性直筆の書や遺品などを展示しています。希望者は、ボランティアガイドによる説明を聞くことも出来るので、お気軽にお問い合わせください。展示館では、記念グッズも販売しています。
その他境内には、僧月性墓、僧月性顕彰碑など、月性を偲ぶ史跡もあります。
十朋亭は、代々醤油製造を業とする萬代家の離れとして建てられました。幕末期に長州藩主毛利敬親が、萩から山口へ藩庁を移した際、藩の役人たちの宿舎として利用されました。当主・萬代利兵衛が志士達の活動を援護していたことから、多くの来客があったと伝えられ、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞、大村益次郎など、維新の志士たちが出入りし、長州ファイブの一員である伊藤博文はこの十朋亭を宿とした記録も見られます。
十朋亭や、吉田松陰の兄・杉民治が開いたとされる杉私塾などは観覧無料、休憩・ガイダンスゾーンも自由にご利用いただけます。30分から体験できる、幕末志士衣装の貸し出し維新deコスプレという体験も出来ます。
有料の展示室では、十朋亭や志士たちゆかりの資料を展示するほか、プロジェクションマッピングや専用ARアプリで、山口市の幕末・明治維新の歴史を楽しく学べます。
吉田松陰は、天保元年(1830)に家禄26石 萩藩士 杉百合之助の次男としてこの地で誕生し19歳頃までを過ごしました。
萩市内を一望できる「団子岩」とよばれる高台にあり、風光明媚な場所です。
誕生地そばには吉田松陰・金子重輔の銅像があり、海外密航を企てた松陰先生と金子重之助(重輔)が下田海岸でペリー艦隊を望見する姿の像となっています。
現存の建物はありませんが、大正時代に設置した間取りを示す敷石が残っています。誕生之地の石碑の揮毫は、松下村塾の門下生・山県有朋によるもの。
高杉晋作は小倉戦争で、長州軍を指揮して幕府軍と戦いましたが、この戦いで持病の結核が悪化し、桜山神社の近くに小さな家を建てて、野村望東尼(のむらもとに)、愛人おうのの看病による療養生活を送りました。
*写真の「高杉東行」の「東行」とは、晋作の号のことです。
幕末の産業化に取り組み産業文化の形成といった地域社会においての人材育成の施設として、松下村塾とともに世界遺産に登録されている「吉田松陰幽囚ノ旧宅」(杉家旧宅)。【 2015年7月世界遺産登録『明治日本の産業革命遺産』 】
松陰は、実家杉家の4畳半の一室で前後2回幽囚生活を送り、読書のかたわら家族や弟子に書を講じ続けていたといわれています。
隣接して、松下村塾、松陰神社があります。
■吉田松陰先生の実家「杉家旧宅」特別公開
通常は外観のみの見学が可となっていましたが、このたび「杉家旧宅」を特別に公開し、神職の逸話(私たちの知らない松陰先生など)を聞ける企画です。
外観見学説明の後に、建物内に上がって頂き、神職よりの説明があります。一般の方は上がることが出来ない施設です。※要事前予約
『松陰神社宮司による松陰講話』とのセット割引があります(見学料金が半額になります)
祭神は菅原道真、旧称天満宮。
1865年、藩政府軍と諸隊が大田・絵堂で戦った際に、諸隊の本陣が置かれたところです。
境内には、その時の戦利品や多くの石碑があります。
楫取素彦は1829年(文政12)、萩藩医松島瑞璠の次男として萩に生まれ、初め伊之助と称した。
兄に洋学者の松島剛蔵がおり、12 歳の時に萩藩の儒者小田村吉平の養子となった。
藩校明倫館で教授し、のち吉田松陰の妹寿と結婚して、松下村塾でも指導にあたった。四境戦争では幕府側との交渉にあたり、慶応3年(1867)藩命により楫取素彦と改名した。
維新後は地方官を経て、明治9年(1876)現在の県知事にあたる初代群馬県令を10 年間つとめ、特に蚕糸業の振興や教育の充実に尽力した。この地は、時期は明らかではないが、素彦が住まいした旧宅跡といわれている。
寿の死後は、松陰の妹 文と再婚した。2017大河ドラマ「花燃ゆ」は文が主人公。
吉田松陰の歌碑が建っています。安政の大獄で、幕府の召喚をうけた吉田松陰が籠で護送される途中、広島県との境である小瀬川に差し掛かかった際、防長二州と最後の別れを覚悟して惜別の歌を詠みました。
現在、小瀬川にはこの歌を刻んだ吉田松陰歌碑が建てられています。
宇部の領主福原家は毛利藩の永代家老として、萩堀内の屋敷に暮らし、宇部の邸は御田屋(おたや:遠方の田地を経営するために設けた建物)と呼ばれていました。1976年(昭和51年)、市の史跡公園として開放された園内には、井戸跡、屋敷神、樹木が残存しています。表門は、萩屋敷の正門(県有形文化財)を3分の2に縮小模造したもので、階段は、神原公園にあった福原越後公銅像の台座が使われています。3月下旬には、「福原まつり」が開かれます。
この辺りはかつての江戸堀の一角で、江戸時代には諸藩の蔵屋敷が立ち並んでいた。ここには広大な長州萩藩の蔵屋敷があった。
江戸末期、毛利藩は外敵からの防衛の為に要所に砲台を築造した。上関海峡の両端(室津日和山、長島瀬戸東山)の丘にも砲台が築かれ大砲が備え付けられた。嘉永6年(1853)2月に吉田松陰が江戸へ行く途中、室津の日和山の砲台場を見学した。
慶応二年(1866年)四境戦争の際、六月七日に幕府海軍の軍艦富士山丸は上関沖に現れて室津白浦を砲撃したがこの両砲台からの反撃はなかった。
幕末の混乱した時代に、勤王歌人として、また志士の母として慕われた野村望東尼が、歌友荒瀬ゆり子宅で他界しました。
宅跡は三田尻本町に、墓は桑山にあります。