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長寿寺(十三重塔)
【全体概要】十三塔は、“抜け寺”の名で親しまれる長寿寺本堂に向かって左側にあり、花崗岩製で相輪は失っているが、他は当初のまま残っています。高さは相輪を除き5.45mあり、実に堂々とした石塔です。下層の軒の一辺は1.17m、最上層の軒の一辺は0.75m…
- 萩・長門エリア

室積台場跡
江戸時代末、四国艦隊の報復攻撃に備え沿岸に砲台場を築いたもの。当時の長州藩は男手が不足し、後に残った婦女子が中心になってこれを築きました。このことから、通称「女台場」といわれています。市指定史跡となっています。
- 岩国・柳井・周南エリア

大村神社
幕末の兵学者で明治維新の功労者・大村益次郎を祀る神社
幕末の兵学者で明治維新の隠れた功労者・大村益次郎を祀る神社で、長沢池の北、鋳銭司郷土館の隣に位置しています。もとの社は、北へ約500mの山中にある墓のそばにあったが、昭和21年に現在の地へ移されました。境内からは長沢池の全景が望めます。
- 山口・防府エリア

三田尻浜大会所跡
三田尻浜の統轄を行ったり、防長塩田の総元締めとしての役割もあった大年寄という役人がいたのが鶴浜の大会所です。現在は、初代大年寄田中藤六の碑をはじめとする5基の石碑が建立、または移設され、往時をしのぶことができます。
- 山口・防府エリア

山田顕義旧宅跡

松浦松洞誕生地
【全体概要】松浦松洞(亀太郎)は、幼い頃から絵が得意で、京都の小田海僊に画法を学んだ。安政3年(1856)、20歳で松下村塾に入塾し、松陰が江戸に送られる直前に肖像画を描きました。文久2年(1862)、久坂玄瑞らとともに上京。公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺…
- 萩・長門エリア

吉田稔麿誕生地
【全体概要】稔麿(栄太郎)は、少年期には宝ほう蔵ぞう院いん流りゅう槍そう術じゅつを学び、安政3年(1856)松本村から最初の塾生として松下村塾に入塾しました。学問にすぐれ「松下村塾四天王」の一人と称され、松陰から最も期待された一人でした。元治元年(1864…
- 萩・長門エリア

坪井九右衛門旧宅

大内義隆供養塔
室町時代の守護大名大内義隆が長門市大寧寺で自害、側室の子息が忍び逃れ、御舟子の養雲院の住職となり、義隆卿、正室、側室を供養するため建立した石塔が三基あります。
- 萩・長門エリア

円龍寺

長寿寺

井上勝旧宅跡
萩藩士井上勝行の三男として萩城下土原に生まれる。幕末の一時期、野村弥吉と称した。安政2年(1855)、開明派として知られた父に従い、江戸・浦賀に赴く。同5年、藩命により長崎でオランダ士官より兵学を学ぶ。文久3年(1863)には井上馨(聞多)・伊藤博文(俊輔)…
- 萩・長門エリア

一ノ瀬城跡
防長の地に大内、厚東、豊田の三氏鼎立の時代があり、一ノ瀬城はその豊田氏の本城で、東麓広畑の地が居館跡です。現在は「豊田大領豊田氏館跡」の碑が立つのみとなっています。
- 下関・秋吉台・宇部エリア

彫刻のまち宇部

日置峠山の須恵器窯跡

嘉楽園
嘉楽園は、旧藩主亀井氏の藩邸の庭園の一部で、初代養老館学頭の山口景徳によって名づけられました。物見櫓、馬場先櫓が残り、旧藩邸の面影を伝えています。春は桜が美しく、名所として知られいます。また、秋にはイチョウを楽しむことができます。
- 山口・防府エリア

児玉源太郎墓
【施設概要】児玉源太郎は、長州藩の支藩・徳山藩出身の陸軍軍人。 陸軍大学校長、台湾総督、陸相などを歴任した後、日露戦争では満州軍参謀長として全力を尽くして作戦指導にあたり、戦後まもなくの明治39年に、あたかも力尽きたかのように亡くなりました。 はじ…
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松陰神社
【施設概要】松陰神社が鎮座する世田谷区若林一帯は、江戸時代には長州藩毛利家のお抱え地(大名が民間から買い上げて所有している土地)でした。 松陰処刑から3年後、久坂玄瑞の働きにより安政の大獄の刑死者等に対する大赦令が布告されたため、松陰の遺骸はこの若…
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善生寺庭園

呼坂宿駅本陣跡
