条件指定検索
- カテゴリを選択
- エリアを選択
- 現在地からの距離を選択
- 現在の検索条件
- 史跡
検索結果
- 並び順
- アクセス数順
- 更新順
- 現在地から近い順
- 表示切り替え
- タイル
- リスト
- マップ
室積台場跡
江戸時代末、四国艦隊の報復攻撃に備え沿岸に砲台場を築いたもの。当時の長州藩は男手が不足し、後に残った婦女子が中心になってこれを築きました。このことから、通称「女台場」といわれています。市指定史跡となっています。
- 岩国・柳井・周南エリア

旧萩藩御船倉
藩主の御座船や軍船を格納した御船倉
藩主の御座船(ござぶね)や軍船を格納した船倉で、浜崎重要伝統的建造物群保存地区に位置しています。明治以後の埋め立てにより、現在は河岸から離れたところに位置していますが、往時は松本川に面して船が自由に出入り出来る場所でした。屋根を葺いた旧藩時代の船倉…
- 萩・長門エリア

日置峠山の須恵器窯跡

周防灘干拓遺跡 高泊開作浜五挺唐樋
切石による精緻な樋の構造と技術に感嘆
高泊の浜五挺唐樋は、江戸時代における周防灘での干拓の実態を示す貴重な遺跡であり、また、切石による精緻な樋の構造は、当時の土木技術の到達点をよく示しています。高泊開作は、小野田の高泊湾を干拓したもので、1668年(寛文8)に完成。樋門は幅10.81m、総高6.18…
- 下関・秋吉台・宇部エリア

土蔵相模跡
【施設概要】JR品川駅南側、線路と交わる八ツ山橋を渡ると、国道第一京浜の東側に平行する狭い街筋があります。ここが江戸時代、東海道で日本橋につぐ第一番目の宿場として旅籠百軒という繁栄をきわめた品川宿の跡です。 中でも酒楼相模屋は高級妓楼として知られ、…
detail_17369.html
四境の役大島口戦跡碑

脱隊諸士招魂の碑
脱退諸士を慰霊する招魂碑
1869(明治2)年、藩政府は奇兵隊を含む諸隊を再編する兵制改革を行いました。これを不服とした約2千人の隊士が内乱を起こし、鎮圧され、首謀者らはこの地で処刑斬首されました。その霊を弔うため招魂碑が建てられました。
- 山口・防府エリア

住吉神社の石造燈台
海上交通の安全を見守る「萩往還」関連史跡
萩藩の水軍の本拠地である御舟倉へ続く入川(いりかわ)の河口に、海上交通の安全を祈願するために、ささやかな祠が建てられ住吉大明神が祭られていたが、水軍の船頭らの願い出で、正徳(しょうとく)5年(1715)、住吉神社が創建されました。石造燈台は、その境内地に…
- 山口・防府エリア

野谷の石風呂
1186年(文治2)ころ、俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が東大寺を建て直すための役割を担い、佐波郡の山中から多くの建築用材を奈良に送る仕事をしました。野谷の石風呂は、作業をする人たちの病気治療のために重源がつくった施設の一つです。石風呂は石を…
- 山口・防府エリア

吉田松陰詩碑
上関大橋のたもと、松陰ゆかりの砲台場があった地に建てられた…
嘉永6年(1853)2月に吉田松陰が江戸へ行く途中、室津の日和山の砲台場を見学しました。同年10月、浦賀で黒船を見た松陰は、長崎にロシア船が来航したことを知り、密航して外国へ行くために船に乗ろうと長崎に向かう途中、ここ室津に寄り歌を詠みました。詩碑は松陰ゆ…
- 岩国・柳井・周南エリア

萩往還(防府)
萩往還は、慶長9年(1604)の萩城築城後、その城下と三田尻(防府)をほぼ直線で結ぶ参勤交代道として開かれた陰陽連絡道で、全長およそ53キロメートルの街道。近世の民衆や維新の志士たちの交通路として重要な役割を果たしてきた古道です。防府市内の関連の遺跡として…
- 山口・防府エリア

上長瀬一里塚

悴坂一里塚

伊藤井上両公上陸の碑
文久3年(1863年)、「長州ファイブ」の一員としてイギリスにいた伊藤博文、井上馨は、英米仏蘭の4ヶ国連合艦隊が下関を攻撃するとの情報に接し、英国留学を中断して帰国の途につきました。両名は、元治元年(1864年)6月24日に富海に上陸し、飛船問屋入本屋磯七の宅…
- 山口・防府エリア

毛利元就公歯廟

国司親相幽閉賜剣之地

益田親施幽閉賜剣之地

旦の登り窯
ノスタルジーに浸る窯跡
【全体概要】日本舎密(せいみ)製造株式会社(現:日産化学工業)の製造する硫酸などを運ぶための容器を、明治26年から旦の製陶所で生産していました。旦の登り窯は、その当時の窯跡です。また、生産された瓶は「硫酸瓶」と呼ばれています。幅7.5m、煙突の高さ12.3m…
- 下関・秋吉台・宇部エリア

向山文庫跡
清水家の家老だった難波家の土蔵。清水親知の遺品と自家の蔵書が残っており,明治39年(1906)には村民にも一般開放していた。昭和51年(1976),光市史跡に指定された。
- 岩国・柳井・周南エリア

富永有隣の碑
維新の動乱期、数々の功績を残しながら自身の来歴を語ろうとせず、また、同志や門弟達が新政府の要職に就き脚光を浴びている時も、ひとり裏街道を歩き、隠遁と苦難の生活にあまんじた人物が富永有隣です。明治17年から生涯を閉じるまで、この場所で後進の指導にあた…
- 岩国・柳井・周南エリア








