条件指定検索
- カテゴリを選択
- エリアを選択
- 現在地からの距離を選択
- 現在の検索条件
- 名所・史跡
- 歴史・文化の展示館
- 人物の資料館
- 郷土館・民族資料館
- 社寺の宝物殿・資料館
検索結果
- 並び順
- アクセス数順
- 更新順
- 現在地から近い順
- 表示切り替え
- タイル
- リスト
- マップ
虚無僧墓

衣毘須神社
干潮で風の穏やかな日などに、砂浜を通って参拝することができることから、『山陰のモンサンミッシェル』と呼ばれています。この小浜海岸は、皇居の壁画東山魁夷「朝明けの潮」の波のヒントにもなったといわれており、荒波の風景も別の魅力ある風景となっています。
- 萩・長門エリア

五卿登陸処
文久3年(1863)の「八・一八の政変」後、勤王派の7人の公卿が京都を追われ、3隻の船に分乗して兵庫を船出して長州に向かいました。1番船には三条実美、2番船には三条西季知・壬生基修・四条隆謌・錦小路頼徳、3番船には東久世通禧・沢宣嘉が乗り込みました。3隻とも…
- 岩国・柳井・周南エリア

福川本陣跡
【全体概要】福川本陣は、初めは藩主の領内巡視や参勤交代などの休憩所であったが、享保6年(1721)幕府の参勤交代における随行員制限令が発せられ、山陽道においても海路から陸路による通行が激増し、幕府の要人や西国大名などの宿泊や休憩の場所を提供する重要な宿…
- 岩国・柳井・周南エリア

塚の川古墳
【全体概要】6世紀末に築かれた円墳で,この地方を掌握した豪族とその家族の墓と考えられる。墳丘の直径は15m,周濠を含めると古墳全体の直径は27mあり,県内でも大型の円墳の一つといえる。
- 下関・秋吉台・宇部エリア

厚狭毛利家墓所
厚狭毛利家一族が眠る場所
【全体概要】郡、船木に八千余石を領した毛利元康以降13代及びその一族の墓所。洞玄寺裏山にあり、毛利勅子(徳基高女の開創者)の墓もならんでいます。
- 下関・秋吉台・宇部エリア

小方謙九郎の墓、小方市右衛門の墓、小方弘徳君碑
石碑は大正2年、小方謙九郎を称えて建てられたものです。小方謙九郎は高杉晋作が結成した奇兵隊に入隊し、馬関攘夷戦に参戦した後、第二奇兵隊の参謀となり、四境の役で活躍しました。維新後は室津に帰り、室津村の第一回村会議員を務め、四階楼を建てた石碑の隣には…
- 岩国・柳井・周南エリア

常満寺の大イチョウ
常満寺を開いたのは、平氏の武将佐原十郎盛光(1293年没)といわれ、1727年(享保12)火災に遭い、1739年(元文4)この地に移転しました。本堂前にある大イチョウは、根元の周囲約10m、目の高さの幹周り6m、高さ約30mの雌樹です。
- 岩国・柳井・周南エリア

維新十三人墓
慶応3年(1867年)萩藩は、幕末期の馬関戦争、禁門の変において戦死した、都濃郡宰判管内出身者の奉斎のために、山添招魂社を設立した。その後、奇兵隊や戊辰戦争の戦死者が合祀されるなど、明治維新前後に国事に殉じた若者13人が祀られている。
- 岩国・柳井・周南エリア

赤祢武人墓所
柱島の西栄寺にある奇兵隊第三代総督赤祢武人墓所。柱島の医師の子として生まれた赤祢武人は、松下村塾で吉田松陰に学び、後に奇兵隊の第三代総督を務める。しかし、当時藩政を主導していた俗論派と正義派諸隊の調停を図ったことで二重スパイとして疑われることになる…
- 岩国・柳井・周南エリア

永太院

正護寺
臨済宗で山号を方松山といいます。この寺は、大内氏の一族右田氏から分れた、弘賢が13世紀末にこの陶の地を領し、地名を氏とし、陶氏を名乗るようになりました。陶弘賢はこの正護寺の前方の台地に屋形を築き、政務をとりました。現在屋形の土塁の一部が残っています。…
- 山口・防府エリア

吉見正頼息女の墓
【全体概要】石州三本松(津和野)城主吉見正頼が阿武郡を支配していた頃、この地に休憩所を設け、正頼の息女を住まわせていたが、天正8年(1585年)8月26日萩の指月邸において病死し、この地に葬った息女の宝篋印塔です。
- 萩・長門エリア

萩市須佐歴史民俗資料館

普門寺塾跡

津和野町/主水畑
元和3年(1617)亀井政矩が4万6000石で津和野に入封、以後250年間亀井家がこの地を治め明治維新を迎えました。藩政を支えたのが親戚筋の家老多胡真清の他三兄弟で、以後も多胡家は代々藩主を助け、城下町の整備と産業の育成に辣腕を振るいます。今も町内に残る段々畑は…
- 山口・防府エリア

庄地古墳
- 岩国・柳井・周南エリア

池田屋事変殉難志士之墓
【全体概要】吉田稔麿など池田屋事変(元治元(1864)年)の殉難志士が埋葬されている。
detail_17975.html
竹林寺
【全体概要】池田屋事変(元治元(1864)年)で捕われ、六角獄舎につながれていた志士たちは、蛤御門の変に際し逃亡を恐れた幕吏によって斬首された。その数は37名にのぼり、当時最大の悲惨な事件であった。その遺骸は竹林寺に合葬されている。
detail_17966.html
杉元相父子の墓所








