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阿倍野墓地

【全体概要】現在は大阪市設南霊園となっている共同墓地。大江神社から移したと思われる蛤御門の変(元治元(1864)年)での殉難の48基の招魂碑や、昭和31年に建てられた鳥羽伏見の戦いでの殉難者の顕彰碑がある。

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阿倍野墓地

和泉式部の墓

「恋多き女性」と評されるほど、情熱的な恋愛に関する歌を多く…

平安時代の歌人「和泉式部」が亡くなったと伝わる。和泉式部の墓は、円形に一段高く盛土された上に立てられています。式部は娘の小式部内侍を丘上の松原で安産されたので、その松原は「愛寝の松原」と呼ばれています。

  • 下関・秋吉台・宇部エリア
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和泉式部の墓

善福寺

室町時代に創建された寺。幕末の志士や著名な絵師の墓が残る

指月山善福寺は永享年間(1429~40)に指月山麓に創建された臨済宗の寺院で、毛利輝元の萩城築城のため、この地に移されました。天文19年(1550)大内義隆が寺領を保証した文書は「萩」の地名が書かれた最古の資料といわれています。竿の部分に人の形をした像が彫られ…

  • 萩・長門エリア
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善福寺

野村望東尼終焉の宅跡及び墓

幕末の混乱した時代に、勤王歌人として、また志士の母として慕われた野村望東尼が、歌友荒瀬ゆり子宅で他界しました。宅跡は三田尻本町に、墓は桑山にあります。

  • 山口・防府エリア
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野村望東尼終焉の宅跡及び墓

吉見正頼息女の墓

【全体概要】石州三本松(津和野)城主吉見正頼が阿武郡を支配していた頃、この地に休憩所を設け、正頼の息女を住まわせていたが、天正8年(1585年)8月26日萩の指月邸において病死し、この地に葬った息女の宝篋印塔です。

  • 萩・長門エリア
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吉見正頼息女の墓

小野小町の墓

36歌仙のひとりである小野小町の墓。

  • 下関・秋吉台・宇部エリア
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小野小町の墓

大野毛利家墓所(海前寺跡)

大野毛利二代目「就詮」が眠る

大野毛利8,600石の領主、ご一族の菩提寺(ぼだいじ)であった海前寺というお寺があった場所です。お墓の手前や右側に栗の木や黒松、くろがねもち、梅の木などの庭木があり屋敷の跡を思わせるものがあります。海前寺跡大野毛利氏の二代就詮(なりあき)ら10基のお墓が…

  • 岩国・柳井・周南エリア
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大野毛利家墓所(海前寺跡)

萩キリシタン殉教者記念公園

【全体概要】萩城の石垣築造に際して、五郎太石(石垣の間に詰める石)が盗まれるいう紛争が益田元祥と熊谷元直、天野元信の間で始まり、石垣築造工事が2ヶ月以上も遅延し、毛利輝元は非は熊谷、天野両氏にありとして、一族11人を討ち滅ぼしました。これを五郎太石事…

  • 萩・長門エリア
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萩キリシタン殉教者記念公園

杉元相父子の墓所

【全体概要】戦国時代、一時野上庄を領した杉元相・元宣父子の宝篋印塔

  • 岩国・柳井・周南エリア
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杉元相父子の墓所

岩国藩主吉川家墓所

吉川家代々墓所。岩国に入府した岩国吉川家初代広家から、六代経永を除く十二代経幹までの当主及びその一族の墓が五十一基あります。墓所裏手の山際には「みみずくの手水鉢」があります。

  • 岩国・柳井・周南エリア
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岩国藩主吉川家墓所

井上馨墓

井上馨は、幕末に長州藩秘密留学生としてイギリスに渡りましたが、滞在中に藩の危機を知り伊藤博文とともに急遽帰国、その後は高杉晋作らと討幕運動に奔走しました。維新後は外相や蔵相などを歴任し、理財の才に優れていたことから、財界にも大きな影響力を持っていま…

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井上馨墓

大野毛利家墓所(秀巌寺)

大野毛利初代「就頼」の生母や正室が眠る

大野毛利初代就頼(なりより)の生母と正室ならびに正室の生母のお墓があり菩提寺として伝わっています。門をくぐった左手側にお墓があります。就頼は平生湾の開作を願いでて許可されました。海水を堰き止め、広大な140ヘクタールの干拓地を造るようになりました。

  • 岩国・柳井・周南エリア
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大野毛利家墓所(秀巌寺)

玉乃世履墓

【施設概要】玉乃世履は、幕末の岩国吉川藩の家臣です。主命により京都に遊学した玉乃は一流の学者に学ぶ一方、勤王の志士とも交流を深めました。岩国に帰郷してからは儒学者として活躍しつつ西洋兵学にも注目して地元で農兵を組織し洋式訓練を施し、この農兵が後の四…

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玉乃世履墓

維新十三人墓

慶応3年(1867年)萩藩は、幕末期の馬関戦争、禁門の変において戦死した、都濃郡宰判管内出身者の奉斎のために、山添招魂社を設立した。その後、奇兵隊や戊辰戦争の戦死者が合祀されるなど、明治維新前後に国事に殉じた若者13人が祀られている。

  • 岩国・柳井・周南エリア
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維新十三人墓

豊久丸の墓

大内義弘死後の弟の盛見は、自分の子豊久丸を水死させ、世子持世を立て後見人となりました。水死体が湛尻の岸に上がったので、有縁の地として妙湛寺を建て祭りました。

  • 山口・防府エリア
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豊久丸の墓

井上馨の墓

長州ファイブの1人  井上馨

井上は長州藩士井上家の次男として天保6年(1835)に湯田で生まれ、大正4年(1915)東京で亡くなりました。のちに分霊が洞春寺に祀られました。洞春寺は、永亀3年(1572)の春に毛利元就の菩提寺として、安芸国吉田の城内に創建され、幕末の頃に萩から現在…

  • 山口・防府エリア
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井上馨の墓

所郁太郎の墓

所は美濃国出身で、京都で医者として開業していましたが幕府に追われ、山口で開業しました。慶応元年(1865)27歳で病死しました。

  • 山口・防府エリア
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所郁太郎の墓

大内義隆供養塔

室町時代の守護大名大内義隆が長門市大寧寺で自害、側室の子息が忍び逃れ、御舟子の養雲院の住職となり、義隆卿、正室、側室を供養するため建立した石塔が三基あります。

  • 萩・長門エリア
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大内義隆供養塔

青海島鯨墓

鯨墓は、高さ2.4メートル、幅0.46メートルの花崗岩の石塔です。正面には「業尽有情雖放不生」「故宿人天同証佛果」「南無阿弥陀仏」と陰刻され、側面には「元禄五年壬申五月 願主 設楽孫兵衛・池永藤右衛門早川源右衛門」と刻まれています。「鯨1頭取れれば7浦が賑わ…

  • 萩・長門エリア
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青海島鯨墓

阿川毛利氏墓所

阿川毛利六代広規から十七代まで、歴代藩主の墓が立ち並びます。付近には居館跡も残っています。

  • 下関・秋吉台・宇部エリア
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阿川毛利氏墓所