岩国のシンボル・錦帯橋の歴史と、時代を超えて受け継がれる思い
岩国城を望む錦川に架かる錦帯橋は、日本三名橋の1つとして知られる山口県岩国市を象徴する存在です。
その優美な木造5連のアーチは、長い歴史の中で幾度も手がかけられて守り継がれ、観光名所としてだけでなく、今も岩国の人々の暮らしと深く関わっています。
錦帯橋がたどってきた歴史をひもときながら、橋に込められた岩国の人々の思いと、橋を未来へ受け継いでいくための取り組みについてご紹介します。
画像:昭和の再建時、仮組みの様子(岩国徴古館所蔵)

錦帯橋って、どんな橋?

岩国城を望む、岩国のシンボル・錦帯橋
錦帯橋は、岩国城を望む錦川に架かる優美な5連のアーチが特徴の木造橋です。全長は約200m、幅は約5m。その構造は、世界的にも類を見ない「錦帯橋式アーチ構造」と呼ばれる独特なもので、日本三名橋の1つに数えられ、国の名勝にも指定されています。江戸時代前期の延宝元(1673)年に、岩国藩3代藩主・吉川広嘉(きっかわひろよし)が「流されない橋」を目指して創建。翌年、洪水によって流されますが、すぐに架け替え、昭和25(1950)年に流出するまで、276年間流されることはありませんでした。
350年以上の時を経て、創建当時の美しさを現代に伝える錦帯橋は、春と秋には錦川沿いに植えられた桜や紅葉が橋を彩り、周囲の山並みや清流・錦川の景観と調和した四季折々の姿で見る人の目を楽しませてくれます。また、夏には岩国藩藩主も愛でたという錦川の鵜飼いが開催されるなど、観光客はもちろん地元市民が集う憩いの場としても親しまれています。現在は、ユネスコの世界文化遺産への登録を目指した取り組みが進められており、岩国のシンボルとしてその美しさと技術的・歴史的価値が、世界に向けて発信されています。
【なぜ錦帯橋が必要だったのか?】岩国城下町の成り立ち

岩国城旧天守台石垣(岩国市錦帯橋課提供)
錦帯橋が架かる錦川は山口県最大の河川で、川幅も錦帯橋が架かっている地点でおよそ200mあります。このような広い川幅に橋が必要とされた背景には、岩国城下町の成り立ちが関わっています。
慶長5(1600)年の関ヶ原合戦の後、毛利家の存続に尽力し、毛利家から岩国3万石を与えられた初代藩主・吉川広家(きっかわひろいえ)は、翌年、岩国へ入ると新しい城下町づくりを始めました。広家は、当時の不安定な情勢をふまえ、守りやすく、攻められ難い防衛都市を設計します。錦川を天然の外堀とすることができる横山の山頂に城を築き、その麓には藩主の屋敷や役所、上級武士の屋敷を配置。しかし、それだけでは十分な広さを確保できなかったため、対岸の錦見地区に中下級武士の屋敷や町人の暮らす町を整備しました。
こうして岩国城下町が誕生しますが、元和元(1615)年になると幕府から「一国一城令」が発せられ、毛利家の意向で岩国城は破却されてしまいました。しかし、その後も藩政の拠点は横山の麓に置かれたため、対岸に住む中下級武士たちは錦川を渡って出仕せねばならず、橋が必要とされてきたのです。
Column
江戸時代の岩国は「藩」ではなかった!?
関ヶ原合戦で東軍・徳川家康に内通した吉川広家は、戦後、取り潰しの危機に立たされた宗家・毛利家のために奔走。結果、広家には岩国3万石が与えられましたが、毛利家中においては家臣格として扱われ、岩国も正式の藩ではなく「岩国領」とされました。藩として公に認められたのは明治元(1868)年のこと。しかし、吉川家は江戸時代を通じて毛利家から独立した統治を行い、参勤していた実態等を踏まえ、本稿では「岩国藩」と記述しています。
画像:吉川広家肖像画(吉川史料館所蔵)

【江戸時代初期】流されない橋の実現が岩国藩の悲願

蛇行して流れる錦川の左岸に描かれた区画が横山地区、右が錦見地区。『岩国御領内之図(部分)』(寛文8(1668)年、岩国徴古館所蔵)
幕藩体制が整い、平和な時代が訪れると、錦川には行政機関が置かれた横山地区と、中下級武士や町民の居住域であった錦見地区をつなぐ橋が架けられてきましたが、洪水のたびに流失していました。橋が流失してしまう原因は、当時の技術では約200mという川幅に強固な橋を築くのが難しかったこと。そして、大雨が降った際に錦川の流れがとても激しくなることにありました。橋が流されるたび、人の移動や物資の輸送は渡船に頼らざるを得ず、増水時には船も危険で通行不能となるため、城下町は川で二分されてしまい、藩はその状況に苦慮していました。そのため「流されない橋を架けたい」というのが、藩主の悲願になっていたのでした。
【3代藩主・吉川広嘉のひらめき】中国の絵に描かれたアーチ橋をヒントに

吉香公園にある岩国藩3代藩主・吉川広嘉像(岩国市錦帯橋課提供)
藩の悲願であった「流されない橋」を実現させたのは、3代藩主・吉川広嘉(きっかわひろよし)でした。広嘉は家臣に命じて橋の模型を作らせたり、様々な橋の構造や形状について研究を重ねていました。そして、橋脚のない刎橋(はねばし)なら洪水時にも橋が流されることはないと考え、優秀な技術者であった児玉九郎右衛門(こだまくろうえもん)を名橋として知られていた甲州(現在の山梨県)の猿橋などへ派遣し、調査させていました。しかし、刎橋構造を持つ橋はいずれも短い川幅に架けられたものばかりで、川幅約200mにも及ぶ錦川に刎橋を架けることは、不可能でした。

『西湖遊覧志』(一部加工して抜粋)(岩国徴古館所蔵)
橋の研究に熱心だった広嘉ですが、実はかねてより健康状態が芳しくなく、中国の帰化僧で医師の独立(どくりゅう)を招いて、療養に当たっていました。そんなある日、独立の故郷・中国杭州の景勝地である西湖を描いた『西湖遊覧志』を見た広嘉に妙案が浮かびます。絵には西湖に浮かぶ小島から小島へ、6つの石造アーチ橋が架けられている様子が描かれていました。広嘉はこれをヒントに錦川の中に小島のような石組みの橋脚を造り、そこにアーチ橋を架けることを思いついたといわれています。
【錦帯橋の創建】悲願の「流されない橋」が完成。岩国のシンボルに

現存最古の『錦帯橋掛替図面』(元禄12(1699)年、岩国徴古館所蔵)
錦川に架ける橋は、『西湖遊覧志』のアイデアをもとに、小島のように強固な土台となる橋脚を築くことから始められました。これには戦国の世で培われた石垣の築城技術を応用した石積技術が用いられ、水による抵抗を逃すため、川の流れに沿って先端が尖った紡錘形(ぼうすいけい)とする工夫も施されていました。橋脚が完成したら、次はその両端から中央に向かって木をアーチ状に張り出させていき、中央の3つのアーチ橋、両端の2つの桁橋として、合計5連の橋を架けていきました。
延宝元(1673)年、ついに岩国藩の悲願であった5連のアーチを持つ錦帯橋が完成。幕府による一国一城令により城を取り壊さざるをえなかった岩国藩の人々にとって、錦帯橋は新しい城下町のシンボルとして燦然と輝きを放ちました。

不落の名橋といわれた明治期の錦帯橋(岩国徴古館所蔵)
しかし、その喜びも束の間。翌年の洪水によって橋は流失してしまいました。藩では早速原因の究明にあたり、同年中に橋を再建したほか、延宝5(1677)年には、流失の一因とされた橋脚の足元にあたる川床の敷石を補強します。天和2(1682)年には、人が渡るときの揺れを抑える目的で鞍木(くらぎ)と助木(たすけぎ)を考案するなど、その後も改良が行われています。錦帯橋は以降276年間に渡り、度重なる川の増水にも屈することのない「不落の名橋」として、岩国の人々の暮らしを支えていったのです。
Column
「錦帯橋」という名前はいつ定着したのか?
「錦帯橋」の名前が確認できる資料で最も古いものは、宝永3(1706)年の『極楽寺亭子記』で、そこには橋が錦見の里に近いことから、この名がついたと書かれています。ただ、江戸時代の資料では「大橋」や「岩国橋」と記されることも多く、他にも「凌雲橋(りょううんばし)」「帯雲橋(たいうんばし)」「五龍橋(ごりゅうばし)」など様々な呼び名が見られました。江戸後期以降になると「錦帯橋」の名が定着していき、明治維新後に正式名称として認められました。
画像:大正11(1922)年の名勝指定を記念して建てられた石碑

【近世から近代にかけての錦帯橋】武士だけが渡れる城門橋から、誰もが渡れる市道・通学路へ

広重『六十余州名所図会 周防 岩国錦帯橋」(嘉永6(1853)年、国立国会図書館デジタルコレクション)
錦帯橋は延宝元(1673)年の創建以来、両岸の町を結び、岩国の繁栄を支えてきました。江戸時代の錦帯橋は、藩の政治の中心である横山地区と、中下級武士の居住区と町屋からなる城下町の中心地・錦見地区をつなぐ城門橋であったことから、藩士や藩の御用商人しか渡ることを許されていませんでした。
やがて商業が栄え、人々の暮らしが豊かになってくると、四国遍路や讃岐の金比羅山、安芸の宮島といった名所を巡る参詣旅のコースに岩国も取り込まれていき、錦帯橋を描いた土産用の刷り物などが売られるようになります。するとその美しい姿が全国に知れ渡ることになり、一大景勝地として諸国から見物客が訪れるようになりました。

錦帯橋を渡る地元の小学生(岩国市錦帯橋課提供)
近代以降は自由な通行ができるようになり、閑静な住宅地である横山地区と、商いで賑わう錦見地区を結ぶ橋として活用され、観光渡橋だけでなく市民の生活道、通学路として岩国の人々の暮らしに欠かせないインフラとなりました。岩国出身の作家・宇野千代(うのちよ)も学生時代、学校から城下町の鉄砲小路にあった伯母の家に行く際には錦帯橋を渡ったようです。錦帯橋は、史蹟名勝天然紀念物保存法によって大正11(1922)年に最初に指定された名勝の1つとして、岩国城がある城山や城下町の町並みとともに将来へと受け継ぐ歴史的な景観として整備、保全がなされるようになりました。橋の架け替えに備えて入橋料を徴収するようになったのは、昭和41(1966)年からのこと。なお、地元の人々には今でも通学や通勤、買い物などの生活道路として利用されています。
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作家・宇野千代とは?波乱万丈な生涯と故郷・岩国で育まれた人生観
2026年秋に放送予定の連続テレビ小説「ブラッサム」の主人公のモデル・宇野千代は、山口県岩国市出身の小説家、編集者、着物デザイナーです。千代が幼少期を過ごした岩国の風土や、岩国時代の家族との関係性は、その後の彼女の文学や着物デザインの作品世界に強い影響を与えました。千代が作家としてデビューする前の岩国時代のエピソードを交えながら、明治、大正、昭和、平成という4つの時代を自由奔放に生きた彼女の生涯をご紹介します。
メイン写真提供:株式会社宇野千代
資料協力:株式会社宇野千代、世田谷文学館、宇野千代顕彰会

【昭和25年の流失】台風で崩壊するも、全市をあげて復活に取り組む

増水に備え6尺桶が設置された錦帯橋(岩国徴古館所蔵)
延宝2(1674)年に再建されて以降、276年もの長きにわたって流失することがなかった錦帯橋ですが、昭和25(1950)年に岩国を襲ったキジア台風によって、流出してしまいました。台風の暴風雨によって錦川の水位が上昇し、錦帯橋は非常に危険な状態となったので、岩国市では水を入れた6尺桶を中央の3つのアーチ橋に置いて重しとするなど防備に努めましたが、増水した錦川の流れに持ちこたえることができず、橋脚が崩れ、流失。岩国のシンボルであり、誇りでもあった錦帯橋の流失は、市民に大きなショックを与えました。

キジア台風で流失した錦帯橋(岩国徴古館所蔵)
しかし、流失したその日には岩国市議会が招集され、錦帯橋復旧の協力を国に求めることが決議されました。その結果、文化財保護委員会(現文化庁)、山口県、建設省(現国土交通省)から補助を受けて再建されることが決定。このとき国からは「流されないコンクリート橋に変更すべき」との意見も出ましたが、「流されない橋」を作りたいのか、「錦帯橋」を作りたいのかという市民を巻き込んだ議論が起こり、地域の文化財として伝統工法での再建を望むという住民の強い要望によって、最終的には橋脚の基礎をコンクリートにするなど、部分的にいくつかの近代工法を取り入れつつも、橋の構造部分については元の木組みを活かす「流されない錦帯橋」を作る方向で起工しました。戦後間もない時期でまだまだ経済的には厳しい時代でしたが、流失からわずか3年での再建を果たしたのです。
【時代を超えて】架け替えによって技術を継承

昭和の再建時、仮組みの様子(岩国徴古館所蔵)
錦帯橋は江戸時代から架け替えが繰り返し行われてきました。そのサイクルは平均して、両端の桁橋については約35年ごと、中央の3つのアーチ橋は約20年ごと、橋板や高欄の取り替えは約15年ごとになっています。架橋に関する技術は、昔から図面などでは書き表せないことを口伝で継承する必要があるため、定期的な架け替えは世代を超えた大工技術の継承のためにも欠かせないものでした。明治時代以降も概ね20〜35年ごとに架け替えが行われ、橋の状況を見ながら一橋ずつ、あるいは複数橋をまとめて更新する方法が続けられています。

平成の架替の様子(岩国市錦帯橋課提供)
直近では、平成13(2001)年秋から始まった「平成の架替」において、3年間で5つの木造橋を全面更新しました。その目的は、老朽化した部材を交換して強度を回復し、橋の安全性を維持するため。そして、大工技術を次世代へ伝える「技術継承の場」とすることでした。このため、工事には幅広い年齢層の大工が集められました。昭和の架け替えから50年が経ち、円滑な伝承体制が組めなかったので、図面や古写真をもとに、木造アーチ構造や、木組みの技術を再現。設計・測量は尺貫法で行い、釘などの金属部材についても鍛造品を使用するなど、細部に至るまで江戸期の工法にこだわりました。また、工事期間中は足場や仮組みの様子などが一般公開され、工事の様子を市民が見学できるようにすることで、橋への愛着を深める試みが行われています。
【現代】橋を守るための取り組み

地元の高校生が参加した錦帯橋健全度調査の様子(岩国市錦帯橋課提供)
江戸時代の錦帯橋では、橋の安全性を守るために橋の両側に「橋守」が置かれていました。その役割は現代にも受け継がれ、平成30(2018)年に、架け替え工事の知識と技術を後世に引き継ぐため、平成の架け替えに参加した職人に「現代の橋守」として錦帯橋の点検・補修を担ってもらっています。
平成30(2018)年に岩国市に設置された錦帯橋課では、行政として橋の点検や補修、保全工事などの計画を進めるとともに、錦帯橋および城下町周辺の歴史文化資源の保存計画を策定し、世界遺産登録を見据えた啓発活動にも取り組んでいます。現場では、「現代の橋守」が市の技術職員と月に1回の定期点検を実施し、橋の状態を見守ります。昭和38(1963)年から5年ごとに行われている「錦帯橋健全度調査」では、たわみやゆがみ、腐朽、割れ、金属の緩みなどを詳細に測定・診断し、必要に応じて部材の交換や補修を重ねてきました。なかでも特徴的なのが、地元の高校生が参加する載荷試験です。橋に荷重をかけてたわみを測るこの検査には、昭和38(1963)年以降、ほぼ5年ごとに岩国高校の生徒らが「重し役」として参加。若い世代が橋の構造や橋を守る仕事について体験的に知る機会を設けるなど、行政、技術者、市民が一体となって錦帯橋を守る体制が作られています。
【未来へ】創建時の美しさを次世代へ引き継ぐために

岩国城天守閣から見た錦帯橋と岩国城下町(岩国市観光振興課提供)
「平成の架替」を経て、岩国市では「錦帯橋みらい構想」をまとめ、橋を遥か将来まで受け継ぐための具体的な計画を進めています。架け替えに必要な200年ものの良質な木材を確保するための「備蓄林」の整備や、解体した木材を宇野千代生家などの市内名所に設置するベンチに転用する再利用の仕組み、将来の大規模工事に備えた「錦帯橋基金」の設立など。いずれも行政だけでなく、市民や地域全体が参加する取り組みです。岩国市と山口県ではさらに、「錦帯橋」を世界の宝として後世に伝えるため、世界文化遺産への登録を目指し、その技術的・歴史的価値を国際社会に向けて発信しています。

錦帯橋まつりでは大名行列を再現(岩国市観光振興課提供)
錦帯橋は岩国で育った人々にとってはランドマーク以上の存在です。幼い頃、遠足で初めて渡った橋であり、大人になって帰省した際には、真っ先にその姿を目に焼き付けに行きたくなる場所。観光客がカメラを向ける隣では、市民がいつもの散歩コースとして川辺を歩いていく――そんな当たり前の日常を積み重ねてきたことが、この橋が350年以上にわたって守られてきた理由なのかもしれません。岩国を訪れた際には、そのような橋と人との関わりにも目を向けながら、錦帯橋の美しさとそこに息づく歴史や伝統を体感してみてはいかがでしょうか。
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眺めるだけでも美しい錦帯橋ですが、独自の構造や歴史の背景を知ると、感動はさらに深まります。旅をより豊かにする、ツアーや体験に参加してみましょう。
四季の移ろいと楽しむ、錦帯橋の伝統行事
春の桜から夏の鵜飼、秋の紅葉まで、季節ごとに全く異なる美しい表情を見せてくれる錦帯橋。周囲の自然が橋を鮮やかに彩る中、年間を通して様々な催しが開催されます。四季折々の見どころを、旅の計画に組み込んでみてはいかがでしょうか。
Column
日本3名橋「錦帯橋」って何がすごい?人気スポットや体験プラン、映え写真の撮り方まで徹底解説
清流・錦川に架かる、5連のアーチが美しい木造橋「錦帯橋」。山口県有数の観光スポットとして多くの観光客で賑わいます。複雑に組み合わさった組木の技法や四季折々の錦帯橋は写真映えもばっちり!周辺観光も盛り沢山です。錦帯橋を存分に楽しむポイントをご紹介します。




























