伝統の先の新たな景色を創出する若手作家たち。坂倉新兵衛窯・坂倉正紘と坂倉善右衛門
画像:三ノ瀬やきもの集落遠景。奥に江戸時代の共同登り窯を望む
萩焼の開祖、李勺光の子孫一統が長門市深川湯本三ノ瀬(そうのせ)に移ったのが1657年。以来、毛利藩の御用窯として代々作陶に励んできた。現在残る5つの窯元の中で、精力的に活動するのが坂倉新兵衛窯の次の十六代を継ぐ坂倉正紘さん、新家坂倉家の坂倉五郎左衛門窯の十代坂倉善右衛門さんだ。伝統窯をつなぐ覚悟を持ちつつも固定観念にとらわれず、新しい萩焼の景色を創出したいと試行錯誤を重ねるお二人。その作陶の日々を拝見してみた。
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取材・文:片岡道子
書家・工芸ライター
一般社団法人師・フォーラム代表理事
日本ペンクラブ会員
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作陶は仕事でもあり趣味でもあり、己の全世界――坂倉正紘(新兵衛窯)
画像:自身のカンバスともいえる窯の前で
坂倉正紘さん 略歴
1983年、山口県長門市に十五代坂倉新兵衛の長男として生まれる。2007年に東京芸術大学彫刻科卒業。09年に同大学院彫刻専攻科終了。その後、京都市伝統産業技術者研修で2年間陶芸の技術を学ぶ。11年より父の下で作陶の道に入る。
「生まれた時からここ(三ノ瀬)で父の仕事を見てきました。父と同じ彫刻科に進学した時点で、いずれ家業を継ぐ意識はあったように思います」と淡々と語る正紘さん。失礼ながら38歳という年齢が信じられないほど若々しく、甘さのある笑顔も美しい。いずれ十六代になる立場、重圧感はないのか?家業を嫌だと思ったことはないのか?決められた将来を歩むことに抵抗はなかったか?そんな質問のすべてが初っ端から吹っ飛んでしまったことが楽しい。
「私にとって萩焼というとどうしても父や祖父、曽祖父の作品が頭に浮かびます。伝統を継ぐという意識はもちろんありますが、ただその中で、自分のスタイルも大事にしていきたいと思っているんです。茶碗にしても、茶道を取り巻く環境や在り方がどんどんと変わっていく中、どのようにするべきか。十二代は京都に通い、茶道の世界に深く傾倒するとともに、百貨店での美術展が開かれだした創世記に、東京など中央から全国へ「茶陶・萩焼」を広めてその評価を再確立させました。そして今また、時代に合わせた変革が必要となっているように感じています。次の時代に生き残るためには何をしたらいいか、どのような可能性があるか、意識してアンテナを張るようにしています。それが苦しいかというと楽しいんですよ。だって、新たなシーンが展開していくのですから」
40代が若手といわれる萩焼の世界。38歳はさらに若い世代だ。その下の世代を魅了するには「もっとおおらかに萩焼を捉えていきたい。それはやきものづくりの間口を広げていくと思うから」と語る次代の十六代坂倉新兵衛の作品を見てみたいと、不意に興味がわいた。正統を歩むがゆえに変革を…。それはどんな景色を映すやきものなのだろうと。
素材としての萩の土の魅力を最大限に引き出したい。
画像:萩焼の典型ともいえる井戸型の茶碗。見島土を多く配合して深く強い鉄色を追求した
萩の土が好きという意見は、御父上である十五代坂倉新兵衛氏と同じだ。そして何よりも代々の個性にこだわりたいという思いも。
「大学で彫刻を学びました。それは今の作品にも影響しています。また先日は、生活の中の器の展示や、急須等の茶道以外の茶器の展示のお話もいただきました。その際も萩の土を中心にさまざまな土を配合したのですが、土ごとの色や質感が期待した以上におもしろく出てくれて。実際は窯を開けるまで分からないのですが、それを楽しみながら作陶しています。萩焼らしくないと言われることも多いのですが、それも誉め言葉として受け止め、その時々の思いのままに制作していきたいと思っています」とのこと。
萩にこだわりながらも、そのやきものだけにしか見られない質感や窯変を突き詰めていくと、結果、萩焼の未来が大きく展いていくことになる…。正紘さんのお話を聞いていると、そんな遠くの地平線が見えてくるような気がする。
Column
萩の土で手びねりした茶入
お濃茶の席で使われる茶入。「ふつうは象牙の蓋が多いが、蓋も土で焼いてみた。土の表情が強く出て、存在感のある茶入となった」そうだ。
坂倉新兵衛窯
住所:山口県長門市深川湯本1487
電話:0837-25-3626
※ご来訪の際は事前にお問合せください。
画像:遊び心を大切にしながらも、お茶席に馴染む茶入を意識
自分から始まる善右衛門窯という気持ちで、真摯に臨む
画像:ギャラリーの中で。従来の萩焼から前衛的なものまで
十代坂倉善右衛門さん 略歴
1969年、山口県長門市生まれ。94年、神戸芸術大学卒業。96年、多治見市陶磁器意匠研究所修了。2000年に三ノ瀬に帰郷し、06年に十代坂倉善右衛門襲名。
坂倉善右衛門窯には独自の歴史がある。初代の李勺光から七代目にあたる坂倉五郎左衛門の代で分家し、新家坂倉善右衛門窯を立てるも、そこから七代目の坂倉五郎を最後に作陶の火を消したのである。平成の世に至って再び窯火を熾し、初代から数えて十代目を継承したのがご当代だ。
復興の理由について、「そもそも三ノ瀬は生まれ育った土地です。窯は廃業していましたが、周囲は作陶にいそしむ一族が点在していますし、窯焚きの風景は自分の原点のように馴染んでいたものです。ここに(住んで)いたから陶芸に戻ってこられたのでしょうね。それは私にとって、とても自然なことだったように思います」と語る。
廃業した理由を伺うことを忘れたが、明治維新によって藩の御用窯としての庇護を失った後、どの窯元も生きていくのに必死だったころと一致する。だが、窯の復興が新家坂倉の悲願だったというような悲壮感はご本人に微塵もない。その言葉通り、馴染んでいた場所に戻って来ただけというような緩やかささえ感じる。しなやかさというべきだろうか。家具職人として評価を受けながらも、いつかブーメランのようにこの地で窯の火を灯すことを確信していた日々があったのだろう。ゆるぎない信念があればこその自然体。その作品も萩焼の概念を超える強さに満ちている。
釉薬や土のブレンドによって、萩焼の新たな景色を描いていきたい
画像:赤間硯の原石の粉を混ぜた土で焼いた大鉢
赤間硯の原石の粉をブレンドして、金属質の雰囲気を出した作品が持つ力強さは従来の萩焼には見られなかったものだ。この大鉢以外にも器とオブジェの間のような幻想的な煌めきを放つ作品も多い。萩焼の従来の固定概念から全く外れるもので、意外であり新鮮であり、ご当代の方向性だろうか。
「伝統窯の作家が作る作品はとにかく上手なんです。茶碗などはお家芸ですから当然と言えば当然で、古来の表現を突き詰めているんですよね。私が今から追いかけていても到底追いつけないわけで、それだけで人生が終わってしまいます(笑)。私は地元の原材料を使いながら従来の萩焼にはなかった新しい表情を持った作品を追求したいと思っています。何焼き?と聞かれたら、私が焼いたものですと答えればいいのですから」
原材料はあくまでも山口県。何をもって萩焼とするかの原点を外すことはしない。ただ、萩焼の固定観念を外して、自分の表現を開拓していきたいという思いは強いという。オブジェを手掛けるのも、空間の中でどのような存在感を放つか、それを確かめるのが楽しいからという。茶碗が萩焼の定点に向かって収斂していく作業というなら、オブジェはより自由に広がって、さらにその先の思いがけない景色を見る遊びまでもたらしてくれるものなのだろう。萩焼の未来への軸足を固めている真っ最中の十代坂倉善右衛門さん…“淡々”と語る表情の奥に秘めた“熱”を感じた。
Column
自分で作った登り窯。愛着はひとしお
ご自身で作った登り窯の前で。窯に火を入れるのは年に二回ほど。「初めて窯に火入れをした時はワクワクしましたね。でも…実は私は地元の消防団に入っているんですが、その時は待機してもらいました。万が一に備え」と楽しいこぼれ話も。煙突から煙が流れる次の窯焚きの時、ぜひまた訪れてみたい。
坂倉善右衛門窯(自宅・店舗・窯)
住所:山口県長門市深川湯本三ノ瀬
電話:0837-25-3703
※見学は事前にご予約をお願いします。
画像:手作りの登り窯の前に立つご当代