代々の歴史をつなぎながら―萩焼の新たな景色を創出する坂倉新兵衛窯

画像:伝統的な枇杷(びわ)色が美しい萩茶碗(十五代坂倉新兵衛作)



萩焼には二つの流れがある。戦国大名の毛利輝元が朝鮮半島から招致した高麗茶碗の技術を持つ陶工たちが、萩と長門に枝分かれして共に御用窯として約400年の伝統をつなぎ、今に至る。この江戸前期以来の伝統窯はいくつかの家系に分かれているが、この度は萩焼のルーツともいうべく初代の李勺光の子孫、山村家につながる坂倉新兵衛窯を、自然豊かな長門市の深川三ノ瀬(そうのせ)に訪ねてみた。


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取材・文:片岡道子 

書家・工芸ライター  

一般社団法人師・フォーラム代表理事

日本ペンクラブ会員

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代々の歴史をつなぎながら―萩焼の新たな景色を創出する坂倉新兵衛窯

深川萩の名門窯、十五代坂倉新兵衛の継承と挑戦

  • 十五代坂倉新兵衛さん

画像:十五代坂倉新兵衛さん



十五代坂倉新兵衛さん 略歴

1949年山口県長門市に生まれる。72年、東京芸術大学美術学部彫刻科卒業。同大学院陶芸専攻終了。78年に十五代坂倉新兵衛を襲名。2012年、日本工芸会理事就任。13年、日本工芸会陶芸部会展審査員、山口県指定無形文化財萩焼保持者に認定される。


ここ数年の間に新たな温泉宿や観光施設も建ち、温泉通の間で話題になっている長門湯本温泉郷の先、小川沿いの細い山道に入ると、不意に森閑とした山里の空気になる。せせらぎの音が聞こえてくる。三ノ瀬川だ。流れに沿って緩やかな坂道を歩いていくと木立に囲まれた黒い瓦の家が何軒か現れてくる。萩焼の開祖、李勺光の子孫、高弟たちによって開窯され今に至る深川五窯の各窯元である。その一番奥にあるのが、坂倉新兵衛窯だ。その仕事場で、ご当代はなんとも優しい笑顔で取材人を迎えてくれた。そして「萩茶碗」についてお話を伺いたいという稚拙な口上に、ある歌を示してくださった。吉井勇の「萩焼の椀を手にして日の本の 土のとうとさ しみじみと知る」という一首である。


六古窯をはじめ日本の窯場はいくつもあるが、その名の下に茶碗がついて固有の名称として有名なのは「萩茶碗」と「楽茶碗」ぐらいであろうか。「萩茶碗」を紐解くと、それはご当代がいわれる「萩の土と作り手である陶工が長い年月、積み重ねてきた様々な技術とが一体となって作り上げてきた文化」そのものに他ならない。日の本の土とは何か。萩茶碗と坂倉新兵衛窯を通して体感してみたい。


29歳で十五代襲名。「萩焼とは何か」を追求してきた40余年

  • 三ノ瀬川沿いを歩く坂倉新兵衛ご当代と長男の正紘さん

画像:三ノ瀬川沿いを歩く坂倉新兵衛ご当代と長男の正紘さん



それぞれの窯場にそれぞれの佇まいがある。坂倉新兵衛窯にはご当代が持つ雰囲気と同じ温かさがあった。仕事場の横にある展示室にはご当代のこれまでの作品が飾られていて、普通なら一番緊張する場所だが、どこか安心するというか、この居心地の良さは何に由来するのだろう。


「萩焼は藩窯として続いてきたため作品に陶工名を刻むことはされず、作者や時代が分かる作品はほとんどないんです。私の祖父である十二代新兵衛になって初めて作家としての仕事を始めました。技術や文化を伝承することがそのまま、私たちの窯の記録となっていっているように思います」と語るご当代。では、この空間に漂う人肌のような温もりは、各代の陶工の息遣いそのものだろうか。


また、「使い込むにつれて微妙に変化する釉調、俗にいう茶慣れの風情を表現する『萩の七化け』という言葉がありますが、江戸前期において高価で貴重な輸入品であった高麗茶碗を日本で作ろうということで始まった萩焼は開窯以来お茶との関わりが深く、『一楽二萩三唐津』と言われるほど抹茶を飲むのにふさわしい茶碗と言われています。萩の多くの作家にとって茶碗作りが大きなテーマとなっている所以ですね。つまり萩焼はそこで(たまたま)土が採れて、窯があって、(結果として)やきものができたのではなく、この土地の風土に根ざした文化や毛利藩主をはじめとした使い手、それに応えて改良を積み重ねてきた陶工の長い歴史が根幹となっているんです。その精神を受け継ぎ、後世に伝えていくことが一番大切なこと」と感じていらっしゃるそうだ。


萩焼の個性ともいうべき品良く柔らかな風情も、この新兵衛窯の温もりも、どうやら陶土の特徴から生まれるだけのものではないようだ。


「萩焼中興の祖」を祖父にもつ。祖父の功績、その生き方を裏切らず…超える

  • ご当代のご子息、未来の十六代・坂倉正紘作

画像:ご当代のご子息、未来の十六代・坂倉正紘作



三ノ瀬川沿いに立派な石碑がある。「萩焼中興の祖」と呼ばれる十二代坂倉新兵衛の功績を称えたものだ。どんな方だったのか、ご当代に伺ってみた。


「明治維新後に御用窯の庇護が外れて時代の文化の急変も伴い、衰退の一途を辿った時があったんですね。生きていくために庶民の台所用品など安価な商品を大量に作ったため識者の信望や評価も失墜し、400年近くの伝統の奥義も絶たれる危機に瀕しました。十二代は、これではならじと茶碗を中心とした作品の個展を全国各地で開催、さらに企業や山口県出身の名士のもとに持参して名声の回復と宣伝に努めました。何年にもわたって全国行脚をしたんです。なかなかに困難なことだったと思いますが、そうやって市場を開拓しつつ、一方で時代の変遷や生活文化の変化を織り込んで創意工夫を凝らした銘品を作陶しなくてはいけないと、窯元にも意識の変革を促したんです。今でいうマーケッターのような役割も担ったのではないでしょうか。その功あって大正、昭和の財閥系の大御所や高級旅館、美術館、文化人などに山口の萩焼が再度、高く評価されていった経緯があるんです」


戦後はしばらく低迷したそうだが、その後、高度成長時代の追い風を受けて庶民にも『お茶文化』がブームとなったことは記憶に新しい。窯元訪問の旅なども大いに受けた。今、生活様式が大きく変わる中で、日本的なものへの回帰、懐古はなぜ起きるのか。美しい枇杷色(びわいろ)のお茶碗でご当代の奥様が点てて下さったお抹茶をいただいた時、その答えが口中に馥郁と満ちて滑るように喉元に落ちていった。


芸大の同期生、京の十五代楽焼とのコラボレーション。そこから得たものとは

  • 楽焼の作品(十五代新兵衛作)

画像:楽焼の作品(十五代新兵衛作)



十五代坂倉新兵衛さんが東京芸大に在籍していた頃、同じ彫刻科に楽焼の(のちの十五代)楽吉左衛門さんがいたそうだ。一緒にヨーロッパを放浪したり、互いの実家(窯元)を行き来したりの交流をしたそうだが、その友情は2014年にご当代が楽焼を、吉左衛門さんが萩焼を焼いて一緒に展覧会をするという企画で現代陶芸界に大きな花を咲かせた。


「楽と萩の茶碗は昔から茶人の間で好まれ、愛されてきたやきものですが、似ているようで全く違ったものでもあるんです。萩茶碗は朝鮮の雑器であったものが日本に伝わってきて、それを茶人が見立てた高麗茶碗の流れを汲むもの。楽茶碗は千利休が茶の湯に使うために長次郎を指導して作らせたもの。楽は手づくね、萩は轆轤での成型です。焼き方も萩は朝鮮から伝わって来た登り窯、楽は炭を鞴(ふいご)で起こし一椀ずつ焼いていくように成り立ちも作り方もかなり違います。それをお互い相手の窯で作陶し、二人展をしたわけです。制作過程では失敗も不安もあり、改めて発見したこともあっていろいろと学びましたね」


もちろん大成功を収めたわけだが、その際にしみじみと思うことがおありになったそうだ。吉左衛門さんが何かの折に、楽茶碗を作ることは土と道具と手さえあればどこでもできるが、京都の楽焼の仕事場でないとできない楽茶碗があると語ったそうで、その気持ちに深く共感されたとのこと。「自分も萩・深川の郷を離れての“私の萩茶碗”は考えられない」と。また、相手の仕事場に行って仕事をすると、その地の多くの人の手助けがあり、それゆえにそこでしかできないやきものになるという思いが改めてわいてきたとも。だからこそ萩焼も、それゆえに萩焼なのである。


Column

半世紀余にわたる友情が生んだ、萩焼作家の楽茶碗

「それぞれのやきもののたどってきた歴史の中に今がある。そしてそれぞれの家の中にも歴史がある。(中略)それが窯場の文化を形づくってまた次に続いていく」

『楽と萩』(世界文化社発行)に掲載された十五代坂倉新兵衛さんのあとがきより



画像:「赤楽茶碗」 写真協力/世界文化社刊『楽と萩』


半世紀余にわたる友情が生んだ、萩焼作家の楽茶碗

萩の土における自分の表現とは。ペインティングナイフを使った絵付けもその一つ

  • 「灰被絵皿 木蓮」
  • 「灰被絵皿 朝顔」

画像1:「灰被絵皿 木蓮」 画像2:「灰被絵皿 朝顔」



今、萩焼には伝統窯以外にも多くの作家が活躍している。県外から移住して作陶に専念している中堅や個人の若手作家が新しい萩焼の景色を創出している。萩焼の里の懐の深さと、その活気は頼もしい限りだが、萩焼の概念を大きく変えた作品も増えている。萩焼のこれからとご当代のこれからを伺った。


「昔と違って多くの情報が入り、電気やガスなどの窯もあり、土などの原材料も各地のものが簡単に取り寄せられる時代です。かなりの速さで変わっていくでしょうね。現実に、各地の土を混ぜ合わせたり、釉薬も多彩で、これまでの萩焼のイメージと異なる作品も多くなっています。でも萩焼の特徴の一つはその独自な陶土です。砂礫の多い大道土と呼ばれる萩ならではの胎土、鉄分の多い赤土である見島(みしま)土やざっくりとした白土の金峯(みたけ)土など、他の土と混ぜる配合によって変化が出てくるんですね。萩ならではの枇杷色(びわいろ)の茶碗や高麗茶碗に近い表情は大道土がなくては作れず、三島手や刷毛目、粉引手などは見島土を混ぜなければ完成しません。これらの土を一切使用しないのであれば、それを萩焼と呼べるのか。何をもって萩焼というのでしょうか。私も私なりの斬新な試みを追求していますが、常に萩とかかわりを持った原材料を意識しています。萩の土は人を癒す温かみがある。そんな萩の土の魅力をどう引き出すか、新しい景色をどう創出するかが私の表現であり使命だと思っています」


仕事場の裏手にある小山を上ると、お茶室がある。そこで絵付けの作品を見せていただいた。繊細な木蓮と朝顔が描かれた2枚の四方皿である。清明にして深い色合いの板皿。森閑とした背後の森から吹いてきた一陣の風に花びらが揺れた…ような気がした。それぞれの作家の萩焼、その在り方、佇まいに感動した。


萩の胎土、白い大道土ならではの美しく清々しい焼き上がり

  • 十五代作の白釉茶碗。赤い見島土を用いて白い釉薬と土のコントラストを際立たせた

画像:十五代作の白釉茶碗。赤い見島土を用いて白い釉薬と土のコントラストを際立たせた



萩の土には登り窯。十五代新兵衛さんのこだわりだ。萩の胎土とも呼ぶべき大道土で成形し、藁灰を調合した白釉をかけた茶碗。心が洗われるような美しさと気品。抹茶の緑がさらに映えることだろう。

Column

茶室「吟松亭」前にて

坂倉新兵衛窯

住所:山口県長門市深川湯本1487

電話:0837-25-3626

HP:http://sakakurashinbe.com

※ご来訪の際は事前にお問合せください。


茶室「吟松亭」前にて