大地のエネルギーが迸る器づくりを極めたい。十三代三輪休雪

江戸前期以来の伝統窯のたゆまぬ努力と、

独自の創造性で新しい萩焼を生み出している個人作家の活躍によって、

多様な美の景色が繰り広げられている萩焼。

400年を経て、この先、その景色はどのような変化を遂げるのだろうか。

最先端に立つ重鎮、十三代三輪休雪(みわきゅうせつ)氏を訪ねて、

萩焼の今と未来を展望してみた。

図らずも山口県の至宝・萩焼の神髄を垣間見る至福の旅となった。


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取材・文:片岡道子 

書家・工芸ライター  

一般社団法人師・フォーラム代表理事

日本ペンクラブ会員


撮影・金田邦男

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大地のエネルギーが迸る器づくりを極めたい。十三代三輪休雪

十三代休雪とは。三輪窯という茶碗屋の一代表にすぎません

  • 「エル キャピタン」

画像:「エル キャピタン」



三輪休雪さん 略歴

1951年、山口県萩市に十一代三輪休雪(壽雪)の三男として生まれる。1975年に米サンフランシスコ・アート・インスティテュートに留学。81年に帰国後、「不走庵 三輪窯」において作陶に入る。萩焼の概念を打ち破る独創的な表現が常に注目を集めてきた。2019年、十三代三輪休雪を襲名。



片岡:23年前に取材をさせていただいております。あの時の印象がどう変わっていらっしゃるかと楽しみにしてまいりました。でも全然変わっていらっしゃらない。柔和を成熟という意味で使うなら、とても柔和な笑顔にお目にかかり取材人の緊張がほぐれることが有難いです。萩焼を代表する立場となられ、おのずと風格が漂っておられる。


三輪:23年前の私がどんな印象だったのか分かりませんが、当時も今も萩焼を代表しているわけではありません。三輪窯という茶碗屋の一代表にすぎません。現在の萩は若い人たちが大勢活躍しているし、それぞれの個性も多彩です。私は私で好きなように作っているだけですから。ああ、それも好きなように作った茶碗です。「エル キャピタン」という作品名ですが、飲みやすい箇所を探して飲んでください。


片岡:(お抹茶をいただきながら)どこから飲めばいいのかと思いきや、意外と飲みやすいですね。凹凸があるのでツルっと手から落ちてしまうようなリスクもなくて(笑)、景色も奥深く。この断崖の岩場を思わせる造形は、どのようにして。


三輪:土の塊の内側を刳り貫く手法です。アウトライン(外側)は、鉈で割った古い材木の断面で土を叩いたり、錆びた刀でそぎ落としたり。これは父(十代休雪)がやっていたやり方ですが、私も同じです。ちなみに最近、最初から茶碗を作ろうという意識を持って作ってしまったらダメだということが分かりました。使い勝手を考えたら頭に予防線を張っちゃうから。ある意味、茶碗ということはどうでもいいと。大地のかけらで飲むお茶でよかろうと。でないとある域を越えられませんから。


片岡:何といっても、この作品名が。あのヨセミテのイメージで作られているんですね。


三輪:20代半ばにアメリカの西海岸に遊学しましてね。サンフランシスコを拠点にオンボロ車でいろんなところに旅をしました。エル・キャピタンの聳え立つヨセミテでは、大自然のスケールに圧倒されて、それが後年、私のものづくりの基準になりました。自然には厳しさ、包容力、ぬくもりなどいろんな要素があって示唆に富んでいる。でも、実際に作品として作るのはそれらを見てからすぐのことでなく、私の裡で大自然の息吹を一客の器に収斂していくそれなりの時間を経た後のこと。茶碗も自然の一部である土から作るならば、ほんのわずかでもあの大自然の雄大さを感じてもらおうと作品名にしました。掌の中の器の手触りから大地の躍動や生命力を感じてもらえたらという思いを込めています。


片岡:やきものは土からできている…と改めて思うほど、この器に土を感じます。


三輪:ある意味、私は土を人格を持ったものとしてとらえています。小さな土の塊でもいい加減なやり方で刀を入れたら跳ね返してきますから。自分の思うようになるものではないんです。土と相対していると疲れるのは、まさに命と相対しているからなんですね。一個の茶碗は何万トンの土の重みと同じです。


一客の茶碗がどれほど雄大であるか。永遠であるか。なぜなら地球の一片だから。

片岡:私はやきものを見る際に、作った人を想像することが多いんですね。創業何百年であろうと何代にわたろうと、それぞれの代の個性を探す癖がありまして。それが楽しくもあり、伝統工芸の魅力でもあると思います。ただ、土にも人格があり、つくる側とのせめぎ合いによって生まれる作品というような捉え方はしていませんでした。なるほど。


三輪:固さだったり、中に入っている砂の量の多さだったり、その割合で土の性質はそれぞれ違います。ただ、どの土も叩いたら相当なる反作用がある。どんな反応が返って来るか、それは叩いてみるまで分からないのですよ。その時の人間としての私の生理的なもの、質的なもの、精神の状態、運動的な力、時間…諸々が土に作用し、それに対して土が思いがけない反作用をすることの繰り返しなんですね。そこで躊躇していたら、もう終わってしまう。私の中で爆発していく動きが冷めてしまう。まさに真剣勝負なんです。


片岡:萩の土に限らず。ということですね。


三輪:人間は時間と共に成熟していくのか、退化していくのか。短時間での変化と長時間の変化、一瞬たりとて一定ではない人間に対して自然、大地は不動です。予測とか計算などとも全く別次元の存在です。先ほども申しましたが、この絶対的な自然こそが私のものづくりの基準なんです。だからこそ土の反作用と相対することが重要なんですね。その瞬間に生まれるものがあるはずですから。


片岡:火花をとらえるような。互いの命が融合する瞬間かもしれませんね。


三輪:永遠と一瞬を併せ持つ爆発的なエネルギーを封じ込めるわけです。一客の茶碗がどれほど雄大であるか永遠であるか、だって地球の一片ですから。


片岡:それがこの「エル キャピタン」。どの作品もまさに大地のイメージですね。ではさっそく、十三代休雪のものづくりの基準となった大自然をはじめ、アメリカでのさまざまな邂逅と体験が人間、三輪和彦に与えた影響についてもお聞きしたいと思います。


私にとって、70年代のアメリカのエネルギーは美味しい空気でした

  • 制作中の「Bowl with Light」

画像:制作中の「Bowl with Light」



片岡:20代半ばから5年のアメリカ生活は、先生にどんな作用をもたらしましたか。


三輪:あしかけ5年。それなりに長い時間です。私の原点は当然ながら日本ですが、さまざまなカルチャーショックを受けて、感覚的には日本的なものとアメリカ的なものが私の中で融合していった年月ですね。ちなみに渡米した1975年はベトナム戦争が終わった年。1ドル360円の時代。あらゆる価値観が変わった画期的な時代で、ヒッピー文化も旺盛な頃でした。ポップアートの名残もあり、ある意味カオスですよ。さらにアメリカの物質文明は日本の比ではない。自分の価値観を構築しなくては流されるだけです。その洗礼を受けました。巨大なエネルギーの息吹は私には美味しい空気で、ワクワクしながら放浪していましたね。


片岡:アメリカに行こうと思ったきっかけはあるんですか。


三輪:磁石のようなものですね。中一の夏休み、兄・龍作が芸大にいた頃に呼び出しを食らって夜汽車で東京へ行ったんです。1964年のオリンピックの年。京橋に国立近代美術館があった頃で、ちょうど開催されていた「現代国際陶芸展」では大きな衝撃を受けました。やきものに対する既成概念が打破され、寛永寺坂美術研究所でのデッサンの勉強も東京の活気も刺激的でしたね。高校生の時には竹橋の近代美術館で観たアメリカの現代陶芸にも魅了されました。私にとってアメリカに行くことは自然な流れだったのでしょうね。


片岡:多感な年代の節目節目のカルチャーショックの頂点に、アメリカでの5年間があったわけですね。1970年代のアメリカを放浪したなんて、羨ましいの一言です。


三輪:しかし、日本に帰ってからが辛かった。3、4年、何やっていいのか分からない。


片岡:感電し、ビリビリしているんだけれど、放電できない辛さですね。


三輪:その時に、当時山口県立美術館の副館長をされていた足立さんと、学芸課長をされていた榎本さんが声をかけてくれたんです。何かやってみませんか。何やってもいいですか?いいですよ。ヨシ!と思って(笑)。若い頃は茶碗よりもやんちゃな仕事ばかりしていました。思うにアメリカに行って大陸ならではのダイナミックな景色に触れたことで狂ったというか、触発されたというか。とてつもない大きさやスケールにこだわった作品作りをしたいと。


片岡:84年の衝撃のデビュー作「DEAD END」ですね。伝説になっております(笑)。


三輪:当時、インスタレーションが流行っていたんです。ものを作って持って行って置くだけという展示ではなく、現場で作って展示するというもので、アンファイヤーといって焼かないやきものなど、矛盾してるけれどそんなコンセプトが流行っていましてね。現代美術、前衛アートの一つの形態でした。


片岡:使われなくなった倉庫や体育館などで、空き缶や新聞紙などを大量に使って、とてつもなく大きな作品が置かれていたのを見たことがあります。巨大な陶板や陶壁なども。高度成長時代の表現への可能性を感じたものですが。アートも作陶も勢いのあった時代でしたね。


Column

「阿吽」

2005年に発表された「阿吽」。直系1.5メートルの大鉢が2つ。陶が内包する圧倒的なエネルギーが爆発した大型作品だが、制作の過程で割れた部分を継いで、フェラーリの赤と黒の塗料を塗っている。これ以外にも総重量20tもの土で作陶した巨大なオブジェ24基からなるインスタレーション「黒の遺構」、大鉢に水を張った「Bowl with light」(この時に割れた大鉢が「阿吽」となった)など既成概念を超えたスケールの作品を継続的に発表している。

「阿吽」

自分が感動しなくて人が感動するわけがないのです。

三輪:焼かない土で何か大きなものを作ってみたいと漠然と思っていた矢先、島根県に水害が起きて、うちの経理をやってくれている人の実家が水に浸かったという知らせが入ったんです。私と兄と助手と何人かでスコップを持ってボランティア作業に駆けつけたのですが、その際、冠水した道路の光景を見て心を奪われました。既にヘドロ状の土の水は引いて、クリーム状態の泥が道を覆っていたんですが、ところどころ乾いてひび割れしていて、それがエッジとなっていて、不謹慎ながら実にきれいなんです。これだ!と。


片岡:これを作ろうと?美術館の中に!


三輪:こんな道路を造って車を走らせてみようと。40トンの萩焼用粘土で作ってみました。8メーターの長さで、ちゃんとカーブもさせて。車やオートバイでその上を走って轍を残し。制作には10日間ぐらいかかりましたね。ひと月ちょっとの展示期間、乾燥していくからどんどんひび割れてエッジが鋭くなって。変化していく景色もまたいいんですよ。


片岡:着眼といい、スケールといい、アンファイヤーといい、すべてが前衛的。


三輪:『平凡パンチ』に掲載されました(笑)。ずいぶんとやんちゃしていたように思うでしょうが、当時の私の環境は家族も含めて、あれやっちゃいかん、これをせいとかは全然なくて本当に自由でしたから。何でも自由にさせてくれました。そもそもが、そういう家系なんです。振れ幅が大きいのは兄(十二代・龍作)ですが、十代を筆頭に代々がやんちゃで伝統をただ踏襲するよりも自分のものを作ろうと思う質なんですね。進取の気風にあふれた家だと思います。


片岡:実は17歳で陶芸家になろうと決めていらしたそうですね。ということは、デビューまでの10年以上、マグマのように熱く溜めていたエネルギーがあったわけで…爆発した瞬間はどんな風にご自身の作陶およびその状況を捉えていましたか。


三輪:世に問う、何かやろうという時は自分の価値観を持ってやるわけで、長い時間をかけて培ってきたものに対して理論武装しなければなりません。要は一つの覚悟を持つ。すべての責任を持つ。そういった気概で対峙しなくてはなりません。もちろん、おっかなびっくりの気持ちもありましたよ。何を言われるかとね(笑)。同時にその反響も楽しみでした。大波を受けて立つ。受け止める。これは凄い刺激でしてね、なぜなら自分で作ったものに一番最初に感動するのは私なんですから。自分が感動しなくて人が感動するわけはない。最初の自分にどれだけの衝撃波が伝わってくるか。それが小さいか大きいか。それを感じるのは自分ですから。木っ端みじんにならず受け止め切って、これならいいと。


片岡:これが自分の表現だと。世の中に向かってどうだと。快感ですね(笑)。


三輪:そう。もう今ではやるだけやってやろうじゃないかと(笑)。どこまでも。


十三代休雪の“新たな休雪白”を追求していく

  • 「寧」(ねい)

画像:「寧」(ねい)



三輪:茶碗回帰ではないけれど、今、私が作っているのは、この「エル キャピタン」と「淵淵(えんえん)」。崖っぷち…の淵です。ろくろの茶碗です。それから「寧(ねい)」。これもろくろの茶碗です。淵淵と寧はどんな土を使っていると思いますか?奈良の薬師寺の東塔の基礎の土、1300年ぐらい前の土、基礎をやり直すために約10年前に掘り出され、譲り受けた土です。塔の基礎ですからね、版築して地盤固めているわけですから半端な土ではない。無数の砂利が入っていました。1トンの土の中の3割4割が砂や石。しかし魅力的な土。それを使ったろくろでの茶碗を制作中です。


片岡:大自然の一部として眠っていた土ではなく、一つの文化建築物を1300年支えてきた土。それを使って生まれた器。こうした物語があるとさらに魅了されますね。茶碗、酒器、皿、花器なども十三代ならではの個性が光るもの、三輪窯の伝統を感じさせるものと多彩ですが、私はこの休雪白が大好きです。


三輪:十代休雪(休和)によって作り出された藁灰の釉薬は、十一代休雪(壽雪)が存分に使うことによってさらに洗練されていきました。白雪のような高潔な美しさ、それでいながら温かな包容力を有する釉薬で、私もこの白に魅了されて、ほとんどの作品は休雪白で表現しています。十代、十一代の情熱を継ぐのだという気概で取り組んでいますよ。


片岡:十代は叔父様、十一代はお父上。十二代はお兄様と各代の巨匠を真近に見てこられて十三代休雪を継ぐときはどのようなお気持ちでしたか。


三輪:それぞれが認められる仕事をしてきたから今につながるわけですね。感謝と同時に彼らの強烈な個性、鋭い感性に圧倒され続けてきた毎日でもありました。でもその作品はどれも魅力的で、何よりも自由な作陶スタイルに影響を受けました。だから私なりの十三代でやって行けばよいのだと思っています。先ほども言いましたように、我が家には昔から進取の気風が満ちていましたから。1663年に毛利藩の御用窯となり、代々まさに独自性を発揮しながら多彩な作品を作ってきましたが、初代と4代が京都の楽さんのところで和を学んだ経緯もあります。萩焼は高麗茶碗のような上に広がっていく形が主流でしたが、楽焼は手づくねで作る筒形。こういう形も取り入れていこうと常に柔軟に多様な表現を探求してきたんですね。十一代休雪が追求した鬼萩の立体的量塊感も旧来萩の茶陶にはないものでしたし。


Column

「雪嶺」

まさに大地のかけらのような花器。この大地から根が張り、花が咲く。青い空までも脳裏に映し出す。そんなイメージを放つ雄大にして存在感ある花器。


「雪嶺」

表現が先にある。そんな花器や茶碗を愉しんでいただけたら。

片岡:伝統窯でありながら個人の作家の連なりでもある三輪窯の存在感は、各代が放つ生命力そのものです。一楽、二萩、三唐津と呼ばれて茶の湯の茶碗として高く評価される萩焼ですが、その約束事といいますか茶事に必要な道具としての意匠的制約があるはずで。でも三輪窯の作品を拝見するに、立体造形として非常に創作的であり、用途や使い勝手よりも表現が先にある。だから極論をいいますとお茶碗であるけれどお茶をいただかなくてもいい。最高のオブジェとして飾って眺めていたい。それだけで十分に愉しめます。


三輪:そうですか。その方の感性で受け止めていただければ。


片岡:雪嶺という花器も素敵ですね。文字通り土のオブジェです。


三輪:花入れを作る際に考えました。花を活けるとはどういうことかと。花は常に大地に根を張り、太陽の光を受けるべく天空を目指し、人に感動を与えるもの。そのような花の命を支え受け止める器として、どのような花器を作るのか。「雪嶺」は十三代を襲名する頃に始めたシリーズですが、雪を抱く高山の迫力と、神々しいまでの冠雪を想起させるような立体物を作りました。


片岡:陶芸品を購入する際、用途や使い勝手を選ぶか、見た目を選ぶか。私の場合は常に見た目です(笑)。このエッジが好き、この窯変が素敵だから使いにくくてもいいやと。三輪窯のお茶碗も花器も、実際のサイズ以上のスケール感に圧倒されます。


三輪:注ぎ込む情熱はサイズとは関係ないですからね。昔も今もあの地平の先は何があるのだろう…あの山の向こうには何が広がっているのだろう。そんな自然への畏敬と憧れをもって作陶しています。80になっても90になっても大自然の躍動や永遠を感じながら作陶ができたら本望ですね。


Column

不走時流を家訓に。不走庵 三輪窯

寛文三年(1663年)、初代休雪が萩毛利藩に召し抱えられ、三輪窯は御用窯となりました。明治維新ののちには毛利藩の後ろ盾を失うも、代々の独自性を発揮しながら萩焼の技法を守り続けています。


十代休雪(休和)は、八代雪山が維新政府の太政大臣となった三条実美から送られた揮毫「不走時流」を家訓とし、それまで二百年以上続いた三輪窯を新たに「不走庵」と号しました。今もなお、その伝統を守りながら挑戦を続けています。


住所:〒758-0011 山口県萩市椿東2721

定休日:月・火曜日

営業時間:10:00~16:00 

ご来訪の際はご予約をお願いいたします。


不走時流を家訓に。不走庵 三輪窯