特別解説|萩藩の絵図【前編】萩藩絵図方と郡方地理図師|山田稔

【画像「防長土図」山口県立山口博物館蔵】

山口県ならではの歴史ガイドツアー「古地図を片手に、まちを歩こう。」の主役である美しい絵図の数々。

これらの絵図は当時の歴史や文化を伝える貴重な資料として、博物館や文書館で大切に保管されてきたもの。

本記事は、山口県の絵図を長年研究しておられるスペシャリスト「地域文化サポーターズやまぐち」の山田稔理事に解説いただく特別企画です。

前編「萩藩絵図方と郡方地理図師」、後編「街道を描いた防長絵図三選」の2部構成で、萩藩の絵図を徹底解説。知れば知るほど面白い古地図の魅力をご紹介します。


【著者プロフィール】
NPO地域文化サポーターズやまぐち 理事 山田 稔(やまだ みのる)
山口県文書館研究員、山口県立山口博物館学芸員、山口県教育庁文化課文化財専門員、山口県史編さん室専門研究員、山口県立山口博物館学芸専門監などを経て、2025年1月現在、山口県立山口博物館主任。専門は日本近世史、日本地図史。

特別解説|萩藩の絵図【前編】萩藩絵図方と郡方地理図師|山田稔

萩藩には絵図作製を担当する役職があった!―「絵図方」の設置―

近世社会では、作図技術の発達と相俟って多様な絵図が作製され、人々の暮らしと密接な関わりを持つようになりました。幕府や諸藩においても、領国管理の基本となる「国絵図」のほか、「城図」「屋敷図」「開作図」「村図」「街道絵図」など、支配の様々な分野において絵図が作製され、用務に利用されました。


萩藩において、このような公用絵図類の作製を担当した役職が「絵図方」です。藩政初期、幕府の国絵図調製などの際は、兼重和泉、羽仁信濃、江木次郎右衛門らがその任にあたっていましたが、承応元年(1653)1月、厚母四郎兵衛就房が「絵図方」(御両国絵図方)に就任し、同役が正式に設置されました。

Column

「絵図方」役人の系譜

元禄13年(1700)7月、厚母四郎兵衛就種の病死により、嫡子四郎兵衛房信が相続。

同年12月、四郎兵衛房信の実弟平田仁左衛門敦恒が、御陣僧より還俗して無給通に加えられ、四郎兵衛房信の弟子として絵図方御用筋見習いを命じられました。宝永5年(1708)8月、平田は、遠近付にして家業を命じられ、厚母家からの引継ぎを指示されています。

そして正徳3年(1713)6月、厚母四郎兵衛房信が退任し、平田仁左衛門敦恒が絵図方に就任しました。

この後、明治元年(1868)11月の絵図方廃止に至るまで、平田家が家業として絵図方を世襲しました。

絵図方の多彩な仕事

絵図方の主たる職務は、幕府・藩主・藩要路からの依頼による「国絵図」「防長両国図」をはじめとした各種絵図の作製ですが、このほかに、「周防長門石高帳」「郷村帳」など関連文書の作成、高札方兼帯など多岐にわたっていました。また、絵図方は、役目柄、領内の地理や地誌に精通していたため、国目付、巡見使の来藩時には必ず随行を命じられ、その能力を存分に発揮して視察先での質問等に対応し、要求された各種の絵図を作製する重責を果しました。

さらに、幕末の動乱期には、海防や幕長戦争などの緊急事態に即応した絵図を作製するなど、その存在は不可欠なものでした。


このような多様な任務に対応するため、絵図方単独ではなく、絵図の仕上げには雲谷派絵師が、図中の文字書き込みや文書清書には介筆役が協力し、そのほか多数の手子たちが参加しています。

また、藩内外の様々な要求に応じて、精度の高い絵図を作成するためには、優れた測量・作図技術に加えて、最新かつ豊富な地誌情報が必須でした。そのためには、年に数度、現地に出張して情報収集に努めなければなりませんでした。


しかし、経費節減のため出張がままならない時期もあり、文化3年(1806)2月、平田仁左衛門敦則は、廻郡についての嘆願書を提出しています。また、享和2年(1802)8月には、平田が幕府提出書類の内容を間違え、逼塞を命じられるなど、その職務は決して安閑としたものではありませんでした。

郡方地理図師「有馬喜惣太」の登場

萩藩の絵図作製者として欠くことのできない人物が、有馬喜惣太(1708~69)です。


現存する作品に、「御国廻御行程記」控本7帖(萩博物館、人丸神社蔵)、「芸州吉田行程記」(山口県文書館蔵)、「中国行程記」8帖(萩博物館蔵)、「防長土図」(重要文化財、山口県立山口博物館蔵)があり、いずれも近世防長を代表する絵図です。


喜惣太は、阿武郡生雲村三谷(山口市)出身。福原家臣有馬八兵衛正光次男。実名武春。萩藩御用絵師雲谷等達の弟子として修行を積みました。

享保7年(1722)、芝御前(毛利宗広妹皆子)婚礼御用のため御雇となり、元文元年(1736)までの15年間、雲谷家御用としてたびたび出仕しました。この御雇時代に井上武兵衛に見出され、絵図方の村絵図作製事業に加わったことが、のちに防長を代表する絵図作製者として活躍する大きな契機となったのです。


その後、身柄を繁沢権兵衛(雲谷等直の改姓改名)の育として、宝暦12年(1762)まで26年間絵図方に勤務しました。そしてついに同年9月、長年の功績に対して「郡方地理図師」として15俵を給される藩士となりました。この「郡方地理図師」こそが、萩藩における、地理と絵図を専門とする技術者に対する肩書きの初出です。


喜惣太の役目は、郡方定居にして、防長両国内の蔵入地・給領地そのほかの境界について、記録類を照合し、場合によっては絵図を作製して明確にすることであり、代々その役目を怠転なく勤める、というものでした。当時は、以前から諸郡で境界問題が起きている一方で、役人の交代もあって詳しい者がいない状況にありました。喜惣太が「郡方定居」となった理由は、まさにこの用務に関する専属の担当者が必要とされたためです。


また、喜惣太は、時には郡方の範疇を超え、藩主や重役の特命による絵図を作製しています。これも喜惣太がその才能を認められていたがためであり、「中国行程記」や「防長土図」という大規模な作品を作製し得た理由はここにあります。また、家業が怠転することがないように、家続人を見習いとして若年時から付け廻し、毎春一度の廻郡を命じられています。このように、喜惣太に対する藩の処遇は格別でした。

宝暦12年(1762)9月の藩から郡方への沙汰によると、藩が境界問題の解決に本腰を上げて取り組んだのは、宝暦検地が大きな契機となったといいます。さらに、御立山の境界も課題で、帳面だけでなく絵図を作製して管理するよう指示されています。

喜惣太の登用と「郡方地理図師」誕生の背景には、地理巧者としての長年の功績に対する恩賞もさることながら、当時の藩政運営上の問題が影響していたのです。

集大成の大型地形模型「防長土図」

有馬喜惣太の最晩年における作品が「防長土図」(重要文化財、山口県立山口博物館蔵)です。

明和4年(1767)4月に完成した大型の地形模型で、藩領を鳥瞰した立体の国絵図ともいうべきものとして、他に類例を見ません。

喜惣太が、長年にわたって蓄積した知識と情報を注ぎ込んだ、まさしく集大成に相応しい作品です。

絵図方と郡方地理図師

郡方地理図師は、喜惣太の後、有馬家が幕末まで6代にわたって受け継がれました。

しかし、2代八兵衛以降、彼らを取り巻く環境は、決して恵まれたものではありませんでした。郡方への日勤もなくなり、年に一度の廻郡も許されませんでした。寛政12年(1800)8月、4代詠次は、有馬家の筆並(家格)を巡って騒動を起こし、逼塞の処罰を受けています。有馬家は、喜惣太一代の功績で、郡方地理図師としての地位を得ましたが、その後は、修行不足や藩の倹約策などもあって用務に恵まれず、家業存続に日々苦悩していたようです。


萩藩の地理図師には、有馬家のほかに秋田家がありました。安永7年(1778)11月、有馬喜惣太の弟子であった後藤孫助が、秋田家に養子入りし、三十人通地理図師として家業を命じられています。ただし、秋田家は、有馬家と異なり、郡方定居ではありませんでした。ちなみに、同年8月、3代権次が有馬家を嗣いでおり、ほぼ同時期に、二つの地理図師家が世代交代したことになります。


天明3年(1783)、秋田九左衛門(孫助)は、絵図方に出勤して、以後18年間にわたり、明細絵図の作製ならびに絵図の書き継ぎや手入れなどに従事しました。寛政3年(1791)2月には、御宝蔵保管の御両国大絵図(元禄国絵図)、境目絵図、御国縁絵図の写本を作製しています。

また、同年11月、絵図方平田仁左衛門とともに国目付御用の絵図を作製し、巡見に随行しています。なお、この際の肩書きは、「地理図師御高札方筆者兼帯」でした。

その後も、寛政4年(1792)、平田とともに芸州大竹村と岩国領脇村の境目争論に関する用務を命じられ、江戸へも出張しています。寛政8年(1796)、地理図師勤功14年、同12年(1800)には勤功18年により御声懸かりの褒美を受けています。


一方、この頃の有馬家は、まさしく筆並を巡って揉めていた時期でした。同じ地理図師ながら、「郡方定居」の有馬家と、制約が少ない秋田家の違いも考慮すべきですが、秋田家躍進の裏には、この騒動も少なからず影響していたと思われます。


秋田家は、2代次兵衛に至っても実働の機会を得ています。天保13年(1842)4月の羽賀台測量、同14年の藩士から差し出された備印、鍵幟、差物などの図面作製、弘化元年(1844)の長府領民本藩領永否所標木撤去事件への対応、文久3年(1863)7月の御用所記録書調兼帯、慶応2年(1866)の山口出張、同年8月の芸石絵図写し取り等の急務遂行に対する褒賞の吟味など、絵図方と連携しつつ、幕末期の活動は盛んでした。

このほか、慶応2年(1866)7月には、次兵衛の弟子細工師五十部吉蔵が、次兵衛の山口出張により、当分の間、手伝いとして絵図方出勤を命じられています。また、次兵衛嫡子吉之進は、御用絵図方手伝いのため、鍾秀隊士としての石州出張を解かれています。

このように記録上では、有馬家より秋田家が、より多くの実績を残しています。


一方、有馬家では、詠次が、文化14年(1817)、文政2年(1819)の2度にわたり、江戸の伊能勘解由家での修行を許されています。もちろん単独ではなく、江戸御番手として出張中に、用務の間合いを見計らってのことでした。これは、文化3年(1806)から同10年(1813)にかけておこなわれた伊能隊の防長両国測量が刺激となったことは想像に難くありません。


明治元年(1868)11月、絵図方は廃止され、絵図類その他は民政局へ引き渡しとなり、地理図師秋田治兵衛は、民政主事附属とされました。そして明治3年(1870)5月、地理図師有馬平太・秋田治兵衛は、絵図方平田小右衛門とともに家業を解かれています。

ここに、絵図方とともに、初代喜惣太以来、およそ110年にわたって萩藩の絵図作製を担った郡方地理図師は、その役目を終えたのです。

※本稿は、『山口県史 通史編 近世』(山口県、2022)の原稿を加除修正したものです。

山口県の絵図・古地図に関するおすすめ記事

山口県に残る絵図の歴史や特徴に迫る専門家による解説記事や、絵図を活用した歴史ガイドウォーク「古地図を片手にまちを歩こう」の楽しみ方など、山口県の絵図・古地図について様々な視点でご紹介しています。

特別解説|萩藩の絵図【前編】
特別解説|萩藩の絵図【前編】
山口県絵図のスペシャリスト山田稔先生が徹底解説「萩藩絵図方と郡方地理図師」
記事を読む
特別解説|萩藩の絵図【後編】
特別解説|萩藩の絵図【後編】
山口県絵図のスペシャリスト山田稔先生が徹底解説「街道を描いた防長絵図三選」
記事を読む
長州藩の古地図って?江戸時代の絵図をざっくり解説
長州藩の古地図って?江戸時代の絵図をざっくり解説
歴史や文化を伝える貴重な資料として保管されてきた古地図の魅力をご紹介
記事を読む
古地図を片手にまちを歩こう|ガイドと歩く山口県歴史ツアー
古地図を片手にまちを歩こう|ガイドと歩く山口県歴史ツアー
江戸時代の古地図を眺めながら、地元ガイドと町並み散策する歴史ツアー
記事を読む