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源平合戦の最終地、「山口県 壇ノ浦」。平家一族に仕えた女房が語る壇ノ浦の戦いとは…

画像:歌川貞秀 作「源平八島檀之浦長門國赤間関合戦之圖」刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)所蔵


名乗るほどの者ではございませんが、平家の家中にお仕えしていた女御でございます。壇ノ浦の戦いで心ならずも生き延びて、その後は平家一族の御霊安かれと祈り続けた半生でございました。あれからどれだけの年月が過ぎたのやら。追憶の中で今も鮮やかに甦る平家の方々の華麗なお姿。どのお姿も哀切にして美しく、栄華の名残に満ちております。壇ノ浦の戦いも、史実に記されなかったさまざまなドラマがありました。風光明媚なあの場所なればこその絢爛たる戦いの名場面。800年余の時空を超えて今、「壇ノ浦・追憶紀行」としてお話し申し上げたく存じます。

源平合戦の最終地、「山口県 壇ノ浦」。平家一族に仕えた女房が語る壇ノ浦の戦いとは…

武家の世の扉を大きく開いた戦いの地。壇ノ浦が日本の歴史を変えた!

画像:壇ノ浦遠景


平安時代末期の寿永4(1185)年、壇ノ浦(現在の下関市)で、栄華を誇った平家が源氏によって滅亡しました。日本史における戦いの場所で、後世にこの壇ノ浦ほどさまざまな物語や伝承とともに取り上げられた場所はありません。この戦いの後、武家が台頭していった経緯が示すように壇ノ浦は日本の歴史を変えた画期的な海峡であり、物語を彩る合戦絵巻の舞台でした。なぜ壇ノ浦だったのでしょう。そして、当時の壇ノ浦とはどのような場所だったのでしょう。京の都生まれの私も、壇ノ浦のことはよく知りませんでした。そう、源氏の兵に追われ追われてこの地に流れ着くまで。けれど、本来なら壇ノ浦で起死回生し、平家の復活を導く勝ち戦になると予想されていた…と後で知りました。なぜ平家は負けたのか、まず壇ノ浦の戦い前夜を振り返ってみましょう。

Column

❣ここがポイント

平家の領国は西国に集中。中でも中国、四国、九州が経済的基盤でした。その地域を結ぶ海上交通路の瀬戸内海を、その地の水軍を含めて掌握していたことが平家の繁栄と富強の原動力だったのです。日宋貿易で共存共栄を享受したホームベースで、本来なら勝ち戦になるはずでした。

画像:星野パルフェ 作

❣ここがポイント

権勢の頂点から凋落し、平氏一門は安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ち。一ノ谷の戦いで敗れ、屋島へ。

画像:火の山公園から見た関門海峡


治承5(1181)年に平清盛様がお亡くなりになられ、それからの平家一族の凋落は目を覆うばかりでございました。寿永2(1183)年、源義仲に大敗を喫した平家は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ちました。その後、いくつかの源氏との戦いを交えて旧都・福原まで戻ることができたのもつかの間、源義経の軍勢の奇襲に遭い、再び西国に逃れることになったのです。寿永3/治承8(1184)年のことで、世に言う一ノ谷の戦いでございます。


背後を塞がれた私たちは海路にて彦島(下関)に向かい、志度浦に内裏を置きました。御年8歳の安徳天皇と二位の尼御前(平清盛正室)も帝の御母である徳子様も公卿も女房もここで休息を得て、これからの行く末を語り合ったものでございます。もはや都へ戻ることはないだろうと…誰もが不安にかられながら、けれど、この時点ではまだ私たちは平家の勝利を信じておりました。なぜなら総大将平宗盛様もまだまだ意気軒高で、屋島の海には平家の船が多数ひしめいておりましたし、この地を制する水軍の多くも我らの傘下にありました。何よりも我らは帝と三種の神器を擁しているのですから。


Column

❣ここがポイント

日本の天皇制では、皇室が代々継承してきた三種の神器(鏡・勾玉・宝剣)を引き継ぐことが即位の重要な要素で、その天皇が正統であることの証明ともされていました。都落ちした安徳天皇がまだ存命にもかかわらず、時の後白河法皇は安徳天皇の異母弟である高倉天皇の第4子を神器(宝剣)のないまま即位させましたが、平家にとって、あくまで正統なる帝は安徳天皇でありました。

画像:星野パルフェ 作

❣ここがポイント

屋島の戦いにも敗れ、瀬戸内海を転々と。悲劇の最終章はすぐそこに。

画像:女房たちが身投げしたと伝わる彦島の身投げ岩


陸の戦いに強い坂東武者で構成された源氏と瀬戸内海を制する水軍を従える平家。当時、頼朝の弟である源範頼が3万もの兵を率いて九州に渡ろうとしておりましたが、平家の抵抗によって長門から先に軍を進めることがかなわず、兵糧も不足して苦戦しておりました。源氏の軍勢の足踏み状態を耳にして、船戦では圧倒的に強い平家を倒せるものなら倒してみよ…。一門にはそんな気概が満ちたものでございます。ほんのいっときでしたが、平家の勢力挽回を夢見た瞬間でございます。


けれど、元歴2/寿永4(1185)年、またも源義経率いる騎馬隊の奇襲によって内裏を焼き払われ、平家一門は御座船と兵船に乗り移って海上に逃れる事態となりました。これが屋島の戦いでございます。もはや陸地に平家が陣を置く場所もなく、波間を漂った挙句、彦島に籠ることになりました。屋島の戦いでも一ノ谷の戦い同様、多くの平家の公達が命を落としました。それを嘆いて、もはやこれまでと後を追う若い女房や妻たち。船を降り、沿岸の島々の奥深き浦に残る者も多数おりました。

最後の合戦地、関門海峡の壇ノ浦。船数は源氏を圧倒し、水軍を従え、得意の船戦のはずが…。

画像::安徳天皇縁起絵図第七巻「壇の浦合戦」(写真右)、同第八巻「安徳天皇御入水」(写真左)赤間神宮所蔵


戦いに策略や裏切りはつきものでございます。源氏は着々と、それまで平家に従っていた水軍に寝返りを持ちかけて、次々に手中に引き入れていきました。一の谷の陣中に10万を数えた平家の軍勢も、屋島の戦いに敗れて後は7千余人という凋落ぶりで、後世に平家蟹の呼び名のもととなった一門の赤い旗が翻る様はもはや遠い落日の景色となりました。

その景色を見て、主だった水軍が源氏の傘下に下っていきました。平家の全盛時代、清盛様と持ちつ持たれつの良い関係を築いていた紀州熊野水軍も、平家一門の有力な支えであった海賊たちも。


日和見を決め込んでいた周防の船奉行・船所五郎何とやらも、源氏水軍の数が増していくのを見て参陣したとのこと。この船奉行、長門の船を支配下に置き、壇ノ浦付近の地理や潮流、水路にも詳しく、源氏にとっては願ってもない人材。百万の味方にも匹敵する収穫でございましたでしょう。このように源氏が勢いを増す中で、それでも私たちは憎き源氏の軍勢を打ち破り、いつの日か都に凱旋できる日が来ることを祈っておりました。それが京の都でなくとも、この海の果てのどこかに安住の地があるのであれば。この海の果てのどこかに、せめて。

合戦の始まりは平家に有利に展開するも…。源平最終戦の勝敗を左右したものは。

画像:みもすそ川公園にある平知盛と源義経像


とうとう最後の戦いの日がやってきました。寿永4(1185)年3月23日の夕刻、平知盛率いる平家軍は彦島を出て豊前田ノ浦沖に船団を並べました。凋落したとはいえ八百艘という大船団で海面を赤旗が覆い尽くす様は、そこに集う数多の命の炎が絢爛と燃え立つようでございました。この田ノ浦と源氏軍が布陣する距離は30余町〈3.27キロ〉。目と鼻の先といっても過言ではありません。


長い夜が明けました。元歴2/寿永4(1185)年4月25日の午前8時半ごろ、平家に有利なゆるやかな追い潮が流れる中、まずは矢合せが行われて、そのまま互いに接近して双方の距離が3丁(約330メートル)になったあたりで戦闘が開始されました。互いの船から音を立てて次から次へと矢が飛び交う様は、船団の奥深くに位置する女船の帳の中からも容易に窺われ、心の臓が早鐘のように鳴りました。生きた心地もいたしません。女房達の顔は青ざめ、誰も口を利かず、幼い帝を抱く二位の尼様を見つめるだけでございました。それでも私たちは信じておりました。壇ノ浦の潮流を知り尽くした水軍と船頭たちが数多く乗り込んだ大船団の、この平家一門の勝利を。

源範頼軍の九州制圧。義経軍の四国制圧と瀬戸内海の制海権奪取。水陸にわたる包囲・孤立化による必然的な結末…。

画像:壇ノ浦古戦場跡は現在、みもすそ川公園として整備されている


屋島の戦い以降の一か月、平家の武将の方々はどのような戦略を練っていらしたのか。ここにおいても平家の美学にこだわっておられたのか…源氏方は軍備を整えつつ水軍勢力を味方に引き入れて瀬戸内海の制海権を握っていき、関門海峡を越えて豊後へ渡った源範頼軍によって九州への退路も塞がれ、私どもの拠点、彦島では兵糧や兵器の補充もままならない状況でございました。このような現実に向き合うこともなく、帝の御座船(大型の唐船)と見せかけて、そこに源氏の兵船を引き寄せて討つなどと生ぬるい計略ばかりだったような気がいたします。


関門海峡は潮の流れの変化が激しく、初めの内こそこれを熟知した平家方が巧みに船を操り、激しく矢を射かけて源氏方を千寿島、満珠島の方向へ追い返しておりましたが、やがて矢を射つくす事態になり、赤間関の方向へ押し返されるに及んで水上の義経軍と九州側の陸上からの範義軍の遠矢との猛攻撃に晒されることになりました。矢面に立つ水手・舵取りたちがどんどん討ち取られ、船を操る者を失った平家方は波間に浮かんだまま身動きが取れません。平家方不利と見た味方の水軍も投降したり寝返ったりと、思い返すもくやしい展開が相次ぎ、気がつけば平家は完全に孤立していたのでございます。


Column

❣ここがポイント

壇ノ浦の戦いでは潮流が大きく作用したといわれてきました。(大正時代に提唱された説)しかし、近年は海上保安庁の調査などの結果、合戦の行われた海域は1ノット以下のゆるやかな潮流で、そもそも船同士の相対運動には潮流は影響しないと報告されています。むしろ源氏方の陸地からの遠矢が戦況を有利に導いたのではないかという説も。

画像:星野パルフェ 作

❣ここがポイント

「波の下にも都がございますよ」(二位の尼)「見届けねばならぬことは見届けた」(平知盛)の言葉を残して。三種の神器と帝を抱いて壇ノ浦に入水。

画像:「平知盛肖像画」赤間神宮所蔵


総指揮を務めていた知盛様が二位の尼様、建礼門院様が乗られた女船に乗り移って来られました。もはや形勢を聞くまでもございません。女たちの表情が変わっていきました。

「見苦しいものを取り清め給え。これから珍しい東男をごろうじられますぞ」…知盛様の言葉の意味するところを十分に理解した上で、私たちは二位の尼様を見つめました。ご指示を。二位の尼様はスクッと立ち上がり、宝剣を御腰にさし、幼い帝を抱き上げました。どこへ行くの?と問う帝に「弥陀の浄土へ。波の下にも都がございますよ」とお答えになり、ともに海に身を投じられました。按察の局、建礼門院様と続き、ためらうことなく平家一門の女たちが入水していきます。平氏一門の主だった武将たちも次々に。私も追って海に入りましたが、波に開いた衣のせいか沈むことができず、すぐに源氏方の兵に網を投げられ、敵船に引き寄せられてしまいました。同じく建礼門院様も。帝の異母弟、守貞親王様も…。


敵の総大将、義経が「死なせてはならぬ。帝を助けるのだ。三種の神器を取り戻すのだ」と怒号を上げる中、二位の尼君と帝のお姿は波間に隠れ、二度と浮かんではまいりませんでした。無事に西方浄土の来迎にあづかりあそばしたのでございましょう。知盛様の最後のお言葉は「見届けねばならぬことは見届けた」とのこと。鎧二領を着て乳兄弟の平家長様と共に見事、壇ノ浦の底深く沈んでいかれたそうな。午の刻、ちょうど正午に戦いは終わりを迎えたのでございます。

戦いの後の壇ノ浦。平家滅亡の歴史の裏で、ここから各地へ落人伝説が広がっていく。

画像:しものせき海峡まつりでは、平家一門を偲ぶ上臈(じょうろう)道中が行われる


この戦いにより伊勢平氏の平清盛一族は滅び、25年にわたる平氏政権に代わって勝利を収めた清和源氏の筆頭、源頼朝は鎌倉に幕府を開き、将軍となって武家政権を確立させました。それはさておき、合戦後ほどなく京都に送られた建礼門院様は出家されて大原に籠られました。生き残り捕えられた多くの平氏武将も大半は処刑され、または流罪となり、さらに各地では平氏の残党狩りが盛んに行われました。私はといえば都に帰ることもできず、そのまま壇ノ浦近くの集落で安徳天皇の御霊を弔いながら暮らしました。このような官女たちは数多く、生計を立てるため海藻を採ったり野山の花を摘んで売り歩いたり、中には遊女にまで身を落とす者もおりましたが、帝の命日にはかつての衣装を着て御陵に参拝したものです。これが後に5月2日から三日間行われる「先帝祭」の上臈(じょうろう)参拝行事となりました。


この他にも平家の残党がひそかに生き延びたという落人伝説が各地にございます。阿波の祖谷、土佐の越知横倉、肥後の五家荘、硫黄島、喜界島など日本全国にいくつとなく伝わるのは嬉しくもあり哀れでもあり。最後の内裏があった彦島の王城山も平家の残党が立てこもったところです。合戦当時、彦島には平家方の本陣が築かれていたようで、いわば落人伝説のルーツそのものと言える場所かもしれません。また、彦島の西楽寺には壇ノ浦の海底から引き揚げた平清盛の守り本尊である阿弥陀如来像が祀られております。壇ノ浦には平家の形見がいまだに数多く沈んでいることでしょう。静かに眠る幾多の御霊と共に。まことに800余年はあっという間でございました。

Column

下関市阿弥陀町の紅石山南麓に赤間神宮と並んで建つ安徳天皇阿彌陀寺陵

祖母である二位の尼に抱かれて入水した安徳天皇(享年8歳)の遺体は、合戦の翌日に発見された。小門海峡で中島一族という漁師の四尋網にかかって引き揚げられた。遺体を引き上げた中島氏は猟師とも武士ともいわれるが、赤間神宮の先帝祭では必ず行列の先頭に立つならわしとなっている。

画像:御陵は、円墳が内玉垣と土塀で二重に囲まれており、悲運の幼帝が静かに眠る。

下関市阿弥陀町の紅石山南麓に赤間神宮と並んで建つ安徳天皇阿彌陀寺陵