愛すべきヒーロー劇の聖地 巌流島の真実に迫る!
巌流島の決闘…関門海峡にポツンと浮かぶ風光明媚な小島を舞台に繰り広げられた、
剣豪・宮本武蔵と佐々木小次郎の果たし合い。一度は耳にしたことがあるであろう、
あまりに有名な話ですが、その話の真実を辿ってみると、謎だらけ。
武蔵が決闘に遅刻した? 真剣を持つ小次郎に木刀の武蔵が勝った?
そもそも武蔵は何者? 小次郎は実在したの?
多くの謎に包まれた、語り継がれるヒーロー劇。その実像に迫りながら、
決闘の舞台となった巌流島の魅力をお届けします!
武士道を極めた男たちの、永遠の謎に包まれた伝説の勝負
画像:無三四岸柳仕合之図(下関市立歴史博物館蔵)
巌流島の決闘とは、宮本武蔵と佐々木小次郎が慶長17年(1612)に行った果たし合いのこと。武士道を極めるため、一心に鍛錬してきた両者が激闘を繰り広げ、ついに武蔵の一撃に小次郎が敗れた…というのはあまりに有名な話です。
真剣を使う小次郎に対して木刀で挑んだ武蔵。約束の時間に大幅に遅れてきた武蔵が勝ったという逸話も。そこに勝負ごとの難しさについて考えたり、戦国時代を生きた男たちの在り方に思いを馳せたりすることもあるのでは?
ところがこの巌流島の決闘、一体どこまでが事実なのか、本当のところは分かっていません。武蔵の自著『五輪書』にも巌流島の決闘について触れた箇所はなく、当時の船島(巌流島)が属していた長府藩の初代藩主・毛利秀元の経歴言行を記した『毛利秀元記』などにも記録が残っていないとか。決闘当日の武蔵の様子や、遅れてきた武蔵に小次郎が怒るなどの詳細が『二天記』という書物にありますが、これがまとめられたのは宝暦5年(1755)。決闘から100年以上経って書かれたものでした。
史料が乏しいにも関わらず、400年近い時を経た今も、巌流島の決闘が数ある歴史物語とともに当たり前のように知られていることは、考えてみれば結構不思議。興味深いことでもありますね。
謎多きカリスマ!男も惚れる宮本武蔵の実像
画像:宮本武蔵イメージ図
佐々木小次郎との対決に挑んだ宮本武蔵とは、どのような人物だったのでしょうか。
武蔵が晩年に書いた『五輪書』によると、出生は天正12年(1584)、現在の兵庫県にあたる播磨国出身とされています。時代は本能寺の変を経て、秀吉の天下に。そのころ幼き武蔵は父・無二斎より武術を学び、二刀流の使い手へと成長。13歳から30歳近くまで武者修行の旅に出たといいます。兵法家として鍛錬を積み、60余りの勝負では一つの負けもなし。武蔵の伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』によれば、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦にも出陣したとか。晩年を過ごした熊本では、兵法書『五輪書』を執筆。正保2年(1645)に熊本で病没。生涯の中で水墨画や書もたしなみ、その作品が数多く残されています。
まさに文武両道を生涯貫いた武蔵。養子である宮本伊織を含め弟子たちに慕われ、類まれなるカリスマ性を持っていたことは、死後に建立された小倉碑文や多くの伝記からも推察できるでしょう。
小次郎は「小次郎」でなかった?
巌流島に眠る伝説の剣豪の正体は…
画像:巌流島にある佐々木巌流之碑
自筆の作品を数多く残した武蔵に対し、巌流島で無残にも敗れた小次郎の自筆の書などは皆無。いつどこで生まれ(生まれは現在の滋賀県とも福井県とも…)、どのような生涯を歩んだ人物なのか、諸説まちまち。武蔵以上に神秘のベールに包まれているのが小次郎の存在です。巌流島の決闘に際しても60代の老人だったという説や、若い青年として描かれている小説もあります。
さらには〝佐々木小次郎〟という名前さえも真偽不明。武蔵の死後に建立された小倉碑文には、武蔵と戦ったのは兵法の達人〝岩流〟とあり、〝小次郎〟の名は出てきません。
武蔵に敗れた岩流は見目麗しい青年剣術家か、はたまた風格ある老剣士か。巌流島を始めとするゆかりの地には記念碑などが存在しますが、その足跡を辿りながらどんな人物なのか想像してみるのも一興かもしれません。
繰り返し語り継がれる命を賭した決闘は戦国時代のシンボル⁉
画像:敵討岸柳島(下関市立歴史博物館蔵)
それにしても、事実を示す史料の少ない巌流島の決闘が、現代に至るまで語り継がれてきたのはなぜしょうか。
決闘があったことが記載されているのは、承応3年(1654)に建立された武蔵の顕彰碑である小倉碑文。そして武蔵が没した熊本の地でまとめられた『二天記』などによって決闘の詳細が描かれています。江戸時代後期になると大衆小説や芝居に武蔵、小次郎が登場。歌舞伎や浄瑠璃の演目としても人気を博し、娯楽の題材として広く親しまれるようになりました。
中でも小説家・吉川英治が昭和10年(1935)年に発表した『宮本武蔵』は、人間味のある魅力あふれた武蔵像を描いて人気を不動のものに。身一つで乱世を生きた男たちによる、戦国時代を象徴するかのような決闘シーンは映画やテレビドラマでもよく描かれ、時を超えて色あせることなく伝えられてきました。
決闘の舞台・巌流島は特異な変遷を歩んだ唯一無二の島
画像:歌川貞秀 西国名所之内廿四 与治兵衛岩(下関市立歴史博物館蔵)
決闘の舞台となった巌流島の歴史にも目を向けてみましょう。
江戸時代に多くの絵師によって描かれた巌流島は、潮流の激しさを思わせるむきだしの岩肌に囲まれ、松が生い茂っています。古来より船島と呼ばれ、明治時代初期にはお隣の彦島村の共有地として彦島村に付属していました。明治19年(1886)にはコレラの流行に伴って病院が設置され、明治34年(1901)からは開削工事を開始。島の姿は江戸時代から大きく変貌し、面積も埋め立てによって数倍広くなっています。のちに造船工場も建設され、工業地と化した時代もありました。
決闘の舞台から工業地、そして観光地へと唯一無二の歴史を誇る巌流島。周囲約1,6㎞の小島ながら、一度は訪れてみたい魅力にあふれています。
関門海峡の風に吹かれて…。
風光明媚な島に降りて、歴史の舞台を歩いてみよう!
画像:旅情をそそられる巌流島の人工海浜と文化碑
唐戸桟橋より船で約10分。巌流島には1日約10便運航している直行便で行くことができます。明治43年(1910)に建立された「佐々木巌流之碑」をはじめ、舟型をした巌流島文学碑や武蔵・小次郎像など、ゆかりの建造物があちこちに。島の大半は公園として整備され、休憩所や釣りデッキ、バーベキューサイトなども設置されています。決闘シーンを彷彿とさせる砂浜などで歴史ロマンに浸れるほか、レジャーを楽しみに訪れても◎。関門海峡の爽快な風を浴びながら、風光明媚なこの島を大いに堪能してみませんか?
■参考文献
講座テキスト「巌流島の決闘の真実」下関市立歴史博物館
「武蔵は公儀隠密であった 『巌流島の決闘』その虚実」澤 忠宏著、近代文藝社
「宮本武蔵」大倉隆二著、吉川弘文館